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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
傷と血の誓い

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132/194

(132) 傷痕の真実

 部屋の隅、壁に寄りかかっていたヴェロニカは、冷たい灰色の瞳を細めて二人を見つめていた。

  短く整えられた黒髪が燭光に照らされ、彼女の鋭さと冷静さの中に、僅かな揶揄めいた視線が混じる。


 ――やはり、サイラスを変えたのはエレノア。


 サイラスはふいに視線を逸らし、沈黙ののち、低く、静かに言った。


「……だが、わかってるだろう? これがどういう意味を持つか。」

 彼は視線を逸らさない。

  その声音には重みがあった。


「ロイゼルでは、君はただの異国の踊り子にすぎなかった。琥珀石を身につけたとしても、それは偶然の選択に過ぎない。でも……明日は違う。」


「俺は“帝国の王子”として姿を見せる。そして君は、“エレノア”として、俺の隣に立つ。」

「それはただの装飾じゃない。“宣言”だ。君が俺の側に立つという、逃げ場のない誓いになる。」


 言葉は静かだったが、刃のように鋭かった。


 エレはふっと笑う。彼女の目は、何の揺らぎもなかった。

「それで? あなたは……怖いの?」


 サイラスは目を見開き、そして、失笑した。

「……心配してるだけだよ。」


「ありがとう、サイラス。」

  エレは真っ直ぐに彼の目を見つめ、微笑む。


 その声は柔らかく、しかし確固たる意志を帯びていた。

  彼女は耳たぶに触れ、まるでそこにもう琥珀石があるかのように。


「前にロイゼルで身につけた時は……私は何もわかっていなかった。でも今は違う。」

「これは、私の意思。そして――私の答えよ。」


 サイラスは黙って彼女を見つめる。

  瞳の奥で、何かが確かに揺れた。


 ――もう、二人とも退く道などない。


 この舞踏会は、多くの運命を変える岐路になるだろう。


 エレはふわりと微笑みながら、軽く冗談めかして言った。

「これで、街角でのんびり食事なんて……もう難しくなるわね?」


 サイラスもまた、肩をすくめて笑う。

「それが“最後の晩餐”にならないことを祈るよ。」


 彼は杯を手に取り、赤い液体をゆっくりと揺らす。

  その表面に揺れる燭光が、彼の表情を淡く照らしていた。


 窓の外には、人々が日常の喧騒の中に身を委ねていた。

  誰一人、そこにいる男が“帝国の王子”だとは気づかずに。


 ――おそらく、こんな静かな時間を過ごせるのも、これが最後になるだろう。


 エレはすぐには返事をしなかった。

  その視線は、サイラスの手首に落ちていた。

  少しだけずれた袖口の隙間から、細く浅い傷痕が燭台の光に照らされて、かすかに浮かび上がっていた。


 それはまるで、鋭利な刃か、縄のようなものに切られたような痕跡だった。

  すでに治癒して久しいものの、薄く白い跡として皮膚に残っている。


 心が、わずかに震える。


 ――あの夢が、蘇る。


 血と痛み、母の怨嗟、理解しようのない恐怖。

  そして、自分の手が血に染まっていたあの光景――


 口を開こうとした。

  彼の過去について。

  あの夢が示した「真実」について。


 だが、エレは逡巡した。


 サイラスは彼女の沈黙に気づき、そっと杯を置いた。

  琥珀色の瞳が、わずかに光を宿して彼女を見つめる。


「どうした?」


 その声に、エレの心拍が微かに早まる。


 これは……きっと、機会なのだ。

  彼の心の防壁に、触れられるかもしれない。


 深く息を吸って、彼女は言った。

「サイラス……あなたの手を、見せてくれる?」


 彼の眉がわずかに動く。

  意外そうに目を伏せ、手を見下ろしてから再びエレと目を合わせた。


 唇に浮かぶのは、いつものような揶揄うような笑み。

「ん? 急に俺の手に興味でも湧いた?」


 その軽薄な口調にも、エレの視線は揺るがなかった。

  そのまなざしは真剣で、そして柔らかい。


「あなたの……傷を見たいの。」

 拒絶できないような優しさが、その声に滲んでいた。


 サイラスの笑みが、ほんの少しだけ翳る。

  彼は短く息を吐き、やがて黙って右手を差し出し、ゆっくりと袖をまくった。


 蝋燭の灯りに照らされて、無数の細い傷痕が現れた。

  それらは時間に風化されたように淡く、肌に馴染んでいる。

  けれど、いくつかは深く、白く、かすかに窪んでいて――

  まるで過去に抗い続けた証のようだった。


 エレはその傷から目を離せなかった。

  指先が、わずかに震えていた。


 ――夢の中で見た光景と、ぴたりと重なっている。


 心臓が高鳴る。

  喉が詰まり、言葉が出ない。


 その時、サイラスがふっと笑った。

  その声は、どこまでも軽やかで。


「もしかして聞くつもりだった? これ、どうやってできたのかって。」


 エレは顔を上げた。

  彼の琥珀の瞳と目が合う。


 彼は変わらず、気だるげな笑みを浮かべていた。

  だが、その奥には――痛みがあった。

  ずっと隠されてきたもの。触れてはいけないもの。


 問いたいことは山ほどある。けれど、今ここでそれを口にすれば、彼はまた笑って、逃げてしまう。

  それが分かっていた。


 だから、エレは呼吸を整えて、手を伸ばすと――

  彼の手首にある、一つの古い傷痕に、そっと触れた。


 ざらりとした感触。時の流れが残した粗い痕。


「……これ、まだ痛むの?」


 その問いは、あまりに意外だったのか。

  サイラスの表情が、ほんの一瞬止まった。


 彼女は過去を問うのでもなく、責めるでもない。

  ただ、その傷がまだ彼に痛みを残しているかを聞いただけ――

  それは、純粋な優しさだった。


 そのあまりの「温かさ」に、サイラスはすぐに言葉を返せなかった。


 数秒の静寂ののち、彼は小さくため息をついて、気の抜けた声で言った。

「とっくに……痛くないさ。」


 エレは彼を見つめ、微笑みを浮かべた。

  その表情は、安堵と優しさに満ちていた。


「……そう、なら良かった。」

 彼女の視線は、自然とサイラスの左目に向いた。

  その瞳に浮かぶ、淡い金の紋――


 夜の静けさに瞬く星のように、

  微かで、それでいて見逃せない光を放っていた。


 エレの心が、ぎゅっと締めつけられる。


 ――左目の傷は?


 夢の中で、彼女は確かに「それ」を感じていた。

  氷のように冷たい刃が瞳に近づくあの瞬間の恐怖。突き刺さるような痛み。

  だが、今、彼女の目の前にいるサイラスの瞳は琥珀色に輝いていた。

  あの夢で見たような、永遠に消えないはずの損傷など、どこにも見当たらない。


 ――本当に、あれは夢だったの?


 サイラスはふと彼女の違和感に気づいたのか、細めた瞳にわずかな興味を宿らせながら、

  くすりと笑う。


「……どうした? 何か考えごとか?」


 とぼけたような口調で言いながら、彼は左手を上げ、指先で前髪を払った。

  燭台の灯りが揺れる中、その隙間から、額の生え際に隠れていた一本の傷痕が露わになる。


 額の左側から斜めに走る細い傷――

  すでに治癒しているものの、皮膚にはかすかに白い線が残っていた。


「……これのことか?」

 サイラスは肩の力を抜いたような笑みを浮かべながら言う。

  その声音は軽く、それでいて何か含みのある響きを持っていた。


 エレの瞳が揺れる。思わず、息をのむ。


 ――彼は、知っていた。


 彼女がまだ一言も「その傷」について口にしていないにも関わらず、

  彼はまるでその質問を予測していたかのように、自らその痕を晒したのだ。


 彼女の視線は、ゆっくりとその傷跡に引き寄せられていく。


 ――目には届いていない?


 その事実に、彼女の胸の中の緊張が少しだけ和らいだ。

  だが、それと同時に、別の感情が押し寄せてきた。


 重く、圧し掛かるような感情。


 ――この傷は、本物。


 ならば、夢で見た「血に染まった世界」も、現実の一部なのでは?

 額の傷は、それを証明していた。


 サイラスの笑みが徐々に消えていく。

  彼は静かに首を傾け、エレの顔をじっと見つめる。


 その視線は深く、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。


  彼女の微細な表情の変化から、何かを探ろうとしているかのように――


 ――なぜ、彼女はそんな表情をする?


 ――どこまで「知って」いるのか?


 沈黙が、二人の間にゆっくりと落ちる。

  音もなく、静かに、しかし確かに、緊張が積み重なっていく。

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