(132) 傷痕の真実
部屋の隅、壁に寄りかかっていたヴェロニカは、冷たい灰色の瞳を細めて二人を見つめていた。
短く整えられた黒髪が燭光に照らされ、彼女の鋭さと冷静さの中に、僅かな揶揄めいた視線が混じる。
――やはり、サイラスを変えたのはエレノア。
サイラスはふいに視線を逸らし、沈黙ののち、低く、静かに言った。
「……だが、わかってるだろう? これがどういう意味を持つか。」
彼は視線を逸らさない。
その声音には重みがあった。
「ロイゼルでは、君はただの異国の踊り子にすぎなかった。琥珀石を身につけたとしても、それは偶然の選択に過ぎない。でも……明日は違う。」
「俺は“帝国の王子”として姿を見せる。そして君は、“エレノア”として、俺の隣に立つ。」
「それはただの装飾じゃない。“宣言”だ。君が俺の側に立つという、逃げ場のない誓いになる。」
言葉は静かだったが、刃のように鋭かった。
エレはふっと笑う。彼女の目は、何の揺らぎもなかった。
「それで? あなたは……怖いの?」
サイラスは目を見開き、そして、失笑した。
「……心配してるだけだよ。」
「ありがとう、サイラス。」
エレは真っ直ぐに彼の目を見つめ、微笑む。
その声は柔らかく、しかし確固たる意志を帯びていた。
彼女は耳たぶに触れ、まるでそこにもう琥珀石があるかのように。
「前にロイゼルで身につけた時は……私は何もわかっていなかった。でも今は違う。」
「これは、私の意思。そして――私の答えよ。」
サイラスは黙って彼女を見つめる。
瞳の奥で、何かが確かに揺れた。
――もう、二人とも退く道などない。
この舞踏会は、多くの運命を変える岐路になるだろう。
エレはふわりと微笑みながら、軽く冗談めかして言った。
「これで、街角でのんびり食事なんて……もう難しくなるわね?」
サイラスもまた、肩をすくめて笑う。
「それが“最後の晩餐”にならないことを祈るよ。」
彼は杯を手に取り、赤い液体をゆっくりと揺らす。
その表面に揺れる燭光が、彼の表情を淡く照らしていた。
窓の外には、人々が日常の喧騒の中に身を委ねていた。
誰一人、そこにいる男が“帝国の王子”だとは気づかずに。
――おそらく、こんな静かな時間を過ごせるのも、これが最後になるだろう。
エレはすぐには返事をしなかった。
その視線は、サイラスの手首に落ちていた。
少しだけずれた袖口の隙間から、細く浅い傷痕が燭台の光に照らされて、かすかに浮かび上がっていた。
それはまるで、鋭利な刃か、縄のようなものに切られたような痕跡だった。
すでに治癒して久しいものの、薄く白い跡として皮膚に残っている。
心が、わずかに震える。
――あの夢が、蘇る。
血と痛み、母の怨嗟、理解しようのない恐怖。
そして、自分の手が血に染まっていたあの光景――
口を開こうとした。
彼の過去について。
あの夢が示した「真実」について。
だが、エレは逡巡した。
サイラスは彼女の沈黙に気づき、そっと杯を置いた。
琥珀色の瞳が、わずかに光を宿して彼女を見つめる。
「どうした?」
その声に、エレの心拍が微かに早まる。
これは……きっと、機会なのだ。
彼の心の防壁に、触れられるかもしれない。
深く息を吸って、彼女は言った。
「サイラス……あなたの手を、見せてくれる?」
彼の眉がわずかに動く。
意外そうに目を伏せ、手を見下ろしてから再びエレと目を合わせた。
唇に浮かぶのは、いつものような揶揄うような笑み。
「ん? 急に俺の手に興味でも湧いた?」
その軽薄な口調にも、エレの視線は揺るがなかった。
そのまなざしは真剣で、そして柔らかい。
「あなたの……傷を見たいの。」
拒絶できないような優しさが、その声に滲んでいた。
サイラスの笑みが、ほんの少しだけ翳る。
彼は短く息を吐き、やがて黙って右手を差し出し、ゆっくりと袖をまくった。
蝋燭の灯りに照らされて、無数の細い傷痕が現れた。
それらは時間に風化されたように淡く、肌に馴染んでいる。
けれど、いくつかは深く、白く、かすかに窪んでいて――
まるで過去に抗い続けた証のようだった。
エレはその傷から目を離せなかった。
指先が、わずかに震えていた。
――夢の中で見た光景と、ぴたりと重なっている。
心臓が高鳴る。
喉が詰まり、言葉が出ない。
その時、サイラスがふっと笑った。
その声は、どこまでも軽やかで。
「もしかして聞くつもりだった? これ、どうやってできたのかって。」
エレは顔を上げた。
彼の琥珀の瞳と目が合う。
彼は変わらず、気だるげな笑みを浮かべていた。
だが、その奥には――痛みがあった。
ずっと隠されてきたもの。触れてはいけないもの。
問いたいことは山ほどある。けれど、今ここでそれを口にすれば、彼はまた笑って、逃げてしまう。
それが分かっていた。
だから、エレは呼吸を整えて、手を伸ばすと――
彼の手首にある、一つの古い傷痕に、そっと触れた。
ざらりとした感触。時の流れが残した粗い痕。
「……これ、まだ痛むの?」
その問いは、あまりに意外だったのか。
サイラスの表情が、ほんの一瞬止まった。
彼女は過去を問うのでもなく、責めるでもない。
ただ、その傷がまだ彼に痛みを残しているかを聞いただけ――
それは、純粋な優しさだった。
そのあまりの「温かさ」に、サイラスはすぐに言葉を返せなかった。
数秒の静寂ののち、彼は小さくため息をついて、気の抜けた声で言った。
「とっくに……痛くないさ。」
エレは彼を見つめ、微笑みを浮かべた。
その表情は、安堵と優しさに満ちていた。
「……そう、なら良かった。」
彼女の視線は、自然とサイラスの左目に向いた。
その瞳に浮かぶ、淡い金の紋――
夜の静けさに瞬く星のように、
微かで、それでいて見逃せない光を放っていた。
エレの心が、ぎゅっと締めつけられる。
――左目の傷は?
夢の中で、彼女は確かに「それ」を感じていた。
氷のように冷たい刃が瞳に近づくあの瞬間の恐怖。突き刺さるような痛み。
だが、今、彼女の目の前にいるサイラスの瞳は琥珀色に輝いていた。
あの夢で見たような、永遠に消えないはずの損傷など、どこにも見当たらない。
――本当に、あれは夢だったの?
サイラスはふと彼女の違和感に気づいたのか、細めた瞳にわずかな興味を宿らせながら、
くすりと笑う。
「……どうした? 何か考えごとか?」
とぼけたような口調で言いながら、彼は左手を上げ、指先で前髪を払った。
燭台の灯りが揺れる中、その隙間から、額の生え際に隠れていた一本の傷痕が露わになる。
額の左側から斜めに走る細い傷――
すでに治癒しているものの、皮膚にはかすかに白い線が残っていた。
「……これのことか?」
サイラスは肩の力を抜いたような笑みを浮かべながら言う。
その声音は軽く、それでいて何か含みのある響きを持っていた。
エレの瞳が揺れる。思わず、息をのむ。
――彼は、知っていた。
彼女がまだ一言も「その傷」について口にしていないにも関わらず、
彼はまるでその質問を予測していたかのように、自らその痕を晒したのだ。
彼女の視線は、ゆっくりとその傷跡に引き寄せられていく。
――目には届いていない?
その事実に、彼女の胸の中の緊張が少しだけ和らいだ。
だが、それと同時に、別の感情が押し寄せてきた。
重く、圧し掛かるような感情。
――この傷は、本物。
ならば、夢で見た「血に染まった世界」も、現実の一部なのでは?
額の傷は、それを証明していた。
サイラスの笑みが徐々に消えていく。
彼は静かに首を傾け、エレの顔をじっと見つめる。
その視線は深く、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。
彼女の微細な表情の変化から、何かを探ろうとしているかのように――
――なぜ、彼女はそんな表情をする?
――どこまで「知って」いるのか?
沈黙が、二人の間にゆっくりと落ちる。
音もなく、静かに、しかし確かに、緊張が積み重なっていく。




