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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
傷と血の誓い

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131/194

(131) 琥珀の約束

 馬車がいくつかの細い路地を抜け、高級感漂う建物の前で静かに停まった。

  太陽街区の一角——雑然とした市街にありながら、ここは貴族と権力者のための静謐な隠れ家。


  灰色の石で組まれた外壁、彩色ガラスの窓、金の看板が品良く掲げられており、華美ではなく、節度のある優雅さが漂っている。


 侍者が精巧な木彫の扉を開くと、エレはゆっくりと中へ足を踏み入れた。

  館内は柔らかな燭光に照らされ、銀のシャンデリアから洩れる光がオーク材の床を温かく彩っていた。


  店内では数組の客が静かに食事を楽しんでおり、騒がしさは一切ない。

  配膳をする侍者たちも、まるで影のように静かに行き交っていた。


 ノイッシュとアレックは外に待機し、別の侍者が無言でエレを2階の個室へと案内する。


 室内に入ると、テーブルには既にサイラスが座っていた。

  赤い髪が燭光に淡く揺れ、いつものように気怠げな笑みを浮かべている。

  彼は立ち上がり、椅子を引いて彼女を招いた。

  深い藍色の貴族服は落ち着いた色味で、その端正な顔立ちに重みと威厳を添えていた。


 彼の後ろには、ヴェロニカの姿。

  短く整えられた黒髪、冷たい灰色の瞳で静かにエレを一瞥し、軽くうなずいた。


「ちょうど良かったわ。料理が今、運ばれたところ。」

 彼女は座ることなく壁際に立ち、従者の務めを全うしている。


 エレは軽やかに歩を進め、ふわりとしたドレスの裾を揺らしながら椅子に腰を下ろした。

  視線を横に向け、ヴェロニカに問いかける。


「一緒に座らないの?」


「彼女には彼女の役目がある。」

  サイラスがさらりと返し、唇にいたずらめいた笑みを浮かべる。

「俺の監視役兼護衛、だろ?」


「当然です、殿下。」

  ヴェロニカは微笑み、背を壁に預けたまま、視線を二人から外さない。


 程なくして侍者が扉を開け、銀のプレートに載せた料理を運び入れてくる。

  香ばしく煮込まれた鴨肉、優しい甘みを湛えた野菜のポタージュ、湯気の立つ白パン、そして深い赤のボルドーワイン——

  どれも、エレの好物だった。


 エレは少し眉を上げ、視線を対面のサイラスに向ける。

  彼はその視線に気づいたのか、軽く首を傾けて問いかける。


「……何か?」


「別に。」

  彼女は静かに微笑むが、心の内には確信があった。——これは彼が選んだ献立だ、と。


 一見、興味なさそうに振る舞うくせに、彼は誰よりも人の好みを覚えている。

  そして、それをひけらかさず自然に差し出す男だった。


 ワインを注ぎながら、サイラスが言う。


「劇場はどうだった?」

 彼の琥珀色の瞳が、杯越しにこちらを見つめる。


 エレは受け取った杯の縁を、指でなぞるように触れ、ひと口。

  芳醇な香りが口内に広がり、自然と表情が緩む。


「《誓約祭》、想像以上に心を引くものだったわ。」


「ほう、聞かせてくれ。」

 サイラスは鴨肉を切りながら静かに促す。


  エレは劇の内容、そしてユージンとのやり取りをかいつまんで話し、

  「原典と今の内容がまるで違う」と言われたことに触れると、


  サイラスは目にわずかな陰を落とした。

  だが、彼は何も言わず、ただ深く考えるように耳を傾けていた。


 そんな彼の表情を見ながら、エレの心にある記憶がふと甦る。


 ——琥珀石のピアス。

  異世界では、「視界と魂を預ける」という意味を持つ、その装飾。


 彼女の指先が、無意識のうちに杯の縁をなぞった。

  優雅な仕草の中で、胸の奥の鼓動が速まる。


 今なら分かる。

  あのピアスは単なる贈り物ではない。

  サイラスが言葉にしなかった、けれど確かに託した「想い」の証だった。


 彼の左耳に揺れる月長石の光が、彼女の瞳に映る。

  エレの表情がわずかに柔らぎ、燭光のような温かさが宿る。


 そして、彼女はふっと視線を上げ、静かに口を開いた。


「明日の夜会——」

  その声は穏やかで、それでいて決然としていた。


「……私は、あの琥珀石のピアスを着けていくわ。」


 サイラスの手がぴたりと止まった。

  彼の視線がゆっくりと彼女に向けられる。

  杯越しの視線が、静かに、しかし確かに揺れる。


 そして——

 彼の唇が、わずかに笑みを浮かべた。


 だがその微笑には、いつもの余裕はなかった。

  それは、何かを深く受け止めた男の、静かな喜びの色だった。


 エレは何も言わなかった。

  ただ、その表情を目に焼き付けた。


 彼女は今、ようやく彼に伝えたのだ。

  「託された想い」に、自らの選択で応える意思を——その、確かな答えを。


 サイラスは悠然とナイフで皿の煮込み肉を切っていたが、その言葉にふと手を止めた。

  顔を上げると、琥珀色の瞳にかすかな驚きの色が走る。まさか彼女がそれを言い出すとは思っていなかったのだろう。


「……ほう?」

  口元に微かな笑みを浮かべ、淡々とした声色に興味を滲ませる。

  「どうして?」


 エレはふわりと笑い、杯を手に取り、優雅な動作で彼の視線を受け止めた。

  氷のような蒼い瞳には、言葉では表せぬ感情が静かに浮かぶ。それはまるで春の水面に映る揺れる灯火のように、温かく、そして深い。


「だって、あなたは自分を――私に託してくれたのでしょう?」

 その一言は、石を湖面に投げたように、サイラスの心に静かに波紋を広げた。


 彼は常に冷静沈着だった。だが、この瞬間、指先がかすかに震えた。

  フォークが皿の端をかすめ、微かな音を立てる。

  顔をそらし、杯を口に運ぶ仕草で表情を隠したものの、耳の先がほんのり赤く染まっていた。

  燭光が彼の赤髪に反射し、まるで炎の中に立っているかのようだった。


 その様子を見て、エレはくすりと笑った。

「なに? 気になっていたくせに、今さら照れてるの?」


「……まったく、君は相変わらず容赦がないな。」

  サイラスはため息交じりに言いながらも、どこか柔らかな表情を浮かべていた。

  その瞳の奥に浮かぶのは、仮面を外したような、素の彼の姿。


「当然よ。」

  エレは首を傾げ、艶やかな笑みを浮かべる。けれど、その笑みはただの戯れではない。

  「今回は、私の番なの。――あなたに誓うのは。」


 サイラスは彼女をじっと見つめ、言葉を失う。

  やがて、ふっと笑みを漏らした。


「……じゃあ、明日が楽しみだな。」


 その声は軽やかでありながら、揺らぎを含んでいた。

  まるで、琥珀の奥で静かに灯る微かな光のように。

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