(131) 琥珀の約束
馬車がいくつかの細い路地を抜け、高級感漂う建物の前で静かに停まった。
太陽街区の一角——雑然とした市街にありながら、ここは貴族と権力者のための静謐な隠れ家。
灰色の石で組まれた外壁、彩色ガラスの窓、金の看板が品良く掲げられており、華美ではなく、節度のある優雅さが漂っている。
侍者が精巧な木彫の扉を開くと、エレはゆっくりと中へ足を踏み入れた。
館内は柔らかな燭光に照らされ、銀のシャンデリアから洩れる光がオーク材の床を温かく彩っていた。
店内では数組の客が静かに食事を楽しんでおり、騒がしさは一切ない。
配膳をする侍者たちも、まるで影のように静かに行き交っていた。
ノイッシュとアレックは外に待機し、別の侍者が無言でエレを2階の個室へと案内する。
室内に入ると、テーブルには既にサイラスが座っていた。
赤い髪が燭光に淡く揺れ、いつものように気怠げな笑みを浮かべている。
彼は立ち上がり、椅子を引いて彼女を招いた。
深い藍色の貴族服は落ち着いた色味で、その端正な顔立ちに重みと威厳を添えていた。
彼の後ろには、ヴェロニカの姿。
短く整えられた黒髪、冷たい灰色の瞳で静かにエレを一瞥し、軽くうなずいた。
「ちょうど良かったわ。料理が今、運ばれたところ。」
彼女は座ることなく壁際に立ち、従者の務めを全うしている。
エレは軽やかに歩を進め、ふわりとしたドレスの裾を揺らしながら椅子に腰を下ろした。
視線を横に向け、ヴェロニカに問いかける。
「一緒に座らないの?」
「彼女には彼女の役目がある。」
サイラスがさらりと返し、唇にいたずらめいた笑みを浮かべる。
「俺の監視役兼護衛、だろ?」
「当然です、殿下。」
ヴェロニカは微笑み、背を壁に預けたまま、視線を二人から外さない。
程なくして侍者が扉を開け、銀のプレートに載せた料理を運び入れてくる。
香ばしく煮込まれた鴨肉、優しい甘みを湛えた野菜のポタージュ、湯気の立つ白パン、そして深い赤のボルドーワイン——
どれも、エレの好物だった。
エレは少し眉を上げ、視線を対面のサイラスに向ける。
彼はその視線に気づいたのか、軽く首を傾けて問いかける。
「……何か?」
「別に。」
彼女は静かに微笑むが、心の内には確信があった。——これは彼が選んだ献立だ、と。
一見、興味なさそうに振る舞うくせに、彼は誰よりも人の好みを覚えている。
そして、それをひけらかさず自然に差し出す男だった。
ワインを注ぎながら、サイラスが言う。
「劇場はどうだった?」
彼の琥珀色の瞳が、杯越しにこちらを見つめる。
エレは受け取った杯の縁を、指でなぞるように触れ、ひと口。
芳醇な香りが口内に広がり、自然と表情が緩む。
「《誓約祭》、想像以上に心を引くものだったわ。」
「ほう、聞かせてくれ。」
サイラスは鴨肉を切りながら静かに促す。
エレは劇の内容、そしてユージンとのやり取りをかいつまんで話し、
「原典と今の内容がまるで違う」と言われたことに触れると、
サイラスは目にわずかな陰を落とした。
だが、彼は何も言わず、ただ深く考えるように耳を傾けていた。
そんな彼の表情を見ながら、エレの心にある記憶がふと甦る。
——琥珀石のピアス。
異世界では、「視界と魂を預ける」という意味を持つ、その装飾。
彼女の指先が、無意識のうちに杯の縁をなぞった。
優雅な仕草の中で、胸の奥の鼓動が速まる。
今なら分かる。
あのピアスは単なる贈り物ではない。
サイラスが言葉にしなかった、けれど確かに託した「想い」の証だった。
彼の左耳に揺れる月長石の光が、彼女の瞳に映る。
エレの表情がわずかに柔らぎ、燭光のような温かさが宿る。
そして、彼女はふっと視線を上げ、静かに口を開いた。
「明日の夜会——」
その声は穏やかで、それでいて決然としていた。
「……私は、あの琥珀石のピアスを着けていくわ。」
サイラスの手がぴたりと止まった。
彼の視線がゆっくりと彼女に向けられる。
杯越しの視線が、静かに、しかし確かに揺れる。
そして——
彼の唇が、わずかに笑みを浮かべた。
だがその微笑には、いつもの余裕はなかった。
それは、何かを深く受け止めた男の、静かな喜びの色だった。
エレは何も言わなかった。
ただ、その表情を目に焼き付けた。
彼女は今、ようやく彼に伝えたのだ。
「託された想い」に、自らの選択で応える意思を——その、確かな答えを。
サイラスは悠然とナイフで皿の煮込み肉を切っていたが、その言葉にふと手を止めた。
顔を上げると、琥珀色の瞳にかすかな驚きの色が走る。まさか彼女がそれを言い出すとは思っていなかったのだろう。
「……ほう?」
口元に微かな笑みを浮かべ、淡々とした声色に興味を滲ませる。
「どうして?」
エレはふわりと笑い、杯を手に取り、優雅な動作で彼の視線を受け止めた。
氷のような蒼い瞳には、言葉では表せぬ感情が静かに浮かぶ。それはまるで春の水面に映る揺れる灯火のように、温かく、そして深い。
「だって、あなたは自分を――私に託してくれたのでしょう?」
その一言は、石を湖面に投げたように、サイラスの心に静かに波紋を広げた。
彼は常に冷静沈着だった。だが、この瞬間、指先がかすかに震えた。
フォークが皿の端をかすめ、微かな音を立てる。
顔をそらし、杯を口に運ぶ仕草で表情を隠したものの、耳の先がほんのり赤く染まっていた。
燭光が彼の赤髪に反射し、まるで炎の中に立っているかのようだった。
その様子を見て、エレはくすりと笑った。
「なに? 気になっていたくせに、今さら照れてるの?」
「……まったく、君は相変わらず容赦がないな。」
サイラスはため息交じりに言いながらも、どこか柔らかな表情を浮かべていた。
その瞳の奥に浮かぶのは、仮面を外したような、素の彼の姿。
「当然よ。」
エレは首を傾げ、艶やかな笑みを浮かべる。けれど、その笑みはただの戯れではない。
「今回は、私の番なの。――あなたに誓うのは。」
サイラスは彼女をじっと見つめ、言葉を失う。
やがて、ふっと笑みを漏らした。
「……じゃあ、明日が楽しみだな。」
その声は軽やかでありながら、揺らぎを含んでいた。
まるで、琥珀の奥で静かに灯る微かな光のように。




