(130) 葬られた真実
劇場を後にしたエレの足取りは、どこか重たかった。
彼女の心の中には、先ほどの会話がまだ深く残っていた。
——ユージン・グレイソン。
あの男は一体、何を探ろうとしていたのか。
彼が興味を示したのは、表向きには「エスティリア貴族の令嬢」である彼女の素性だった。
しかし、その軽妙な語り口の裏には、より深い刺探があった。
まるで、何かを既に「知っている者」のような話し方。
《誓約祭》はかつて改変されたことがあり、その原典は今のものとはまったく異なる——
そして、「忘れられた物語」は、いまだ一部の者たちの手にある。
ユージンが口にしたのは、その二つの鍵だった。
エレは静かに眉を寄せた。
思い出すのは、ヴェロニカから得た密報。
——これらの舞台は、ただの伝説や恋物語ではない。
その裏には、帝国が歴史から消し去った「現実」が隠されている。
《誓約祭》の原本。
それは単なる悲恋ではなく、異世界の血を引く者たちの「真実の記録」ではないのか。
物語の結末は美しく飾られた別れではなく——
より深く、暗い、絶望の淵だったのではないか。
帝国において、異世界人の末路とは……埋められることだったのか?
シルベルの言葉が、エレの脳裏に甦った。
「帝国には、数百年ものあいだ異世界人の正式な記録が存在しない。」
それはどういう意味なのか?
本当に異世界人は現れなくなったのか?
それとも、帝国が彼らの存在を「消した」のか?
あるいは——
彼らは今もこの地に存在し、ただ「禁忌」として、闇の中に隠されているだけなのか?
もし後者ならば、帝国が異世界人の存在を封じ込めているのは何故なのか。
そこには、何か決して明るみに出してはならない理由があるのか。
エレは深く息を吸い込み、早鐘のように鳴る胸の鼓動を抑えようとした。
しかし、その次に浮かんできた思考は——もっと危険だった。
サルダン神聖国。
彼らは今もなお、異世界人の血を執拗に追っている。
「神に授けられし力」として、その血を渇望し、情報を集め、研究と称して実験すら行う。
ラファエットのあの冷ややかな笑みが、耳元で再び蘇った。
「その“神の力”の研究に参加した志願者たち——彼らは、もっと酷い目に遭いましたからね。」
——それはつまり、異世界人は今もなお「現れている」。
ただ、帝国がその事実を「記録していない」だけなのか?
帝国は、異世界人の出現を本当に知らないのか?
それとも、知っていて「黙っている」のか?
いや、もしかすると——
帝国そのものが、異世界人の存在を「利用」している?
エレの手は、無意識のうちに握られていた。
白くなった指先に、自らの緊張を実感する。
思考の奥で、ひとつの仮説が形を成し始める。
ユージン・グレイソンのあの試すような口ぶり。
それは単なる「知的探究心」ではない。
——彼は、疑っている。
彼女が「異世界人」と、何らかの繋がりを持っていることを。
風が吹き抜け、黒薔薇劇場の外に広がる夜の空気を揺らす。
墨を流したような闇に、遠くから蹄の音が響く。
それがただの街の喧騒なのか、あるいは何かの兆しなのか。
エレは目を閉じ、胸に手を当てた。
掌の温度が、現実に彼女を引き戻す。
——ユージンが何者であれ、
彼が提示した「鍵」は疑いようもない。
帝国における異世界人の「真実」は、彼女の知る以上に、ずっと複雑で、そして危険だ。
「エレ様、そろそろ戻りましょう。」
ノイッシュの低い声が、彼女の思考を遮る。
エレは小さく頷き、余韻のように残る思索を胸にしまい込んだ。
だが、歩き出すその瞬間——
彼女の指先は、無意識に袖口の縁をなぞっていた。
《黒薔薇劇場》。
この場所には、葬られた物語が眠っている。
それを知る者だけが、次の扉を開くのだ。




