(13) 沈黙の足音
書斎を出て、サイラスは静かな廊下を歩く。
そして、そのまま領主邸の主館へと足を踏み入れた。
豪奢で格式高い造りの邸宅。
天井には見事なクリスタルのシャンデリアが吊るされ、
足元には繊細な模様が織り込まれた絨毯が広がる。
ここは、彼の「家」とされる場所。
——だが、彼にとっては決して「帰るべき場所」ではなかった。
何のあてもなく歩いていたはずが、
ふと、大広間の前を通りかかったとき——
聞き覚えのある声が耳に届いた。
「……これ以上あの子があんな態度を続けるなら、
一体どうやってフレイヤを社交界に出せるの?」
女性の声音には、不満と苛立ちが滲んでいた。
——イザベル夫人。
エドムンド侯爵の正妻。
つまり、彼の「養母」にあたる女。
サイラスは扉の前に静かに立ち止まる。
足を踏み入れることなく、ただ無言で耳を傾けた。
「——あの子は毎日遊び歩いてばかりで、くだらない場所にばかり顔を出しているわ!」
イザベル夫人の怒気を帯びた声が、大広間に響く。
「そんなことを続けていたら、ブレスト家の名が貴族社会で笑いものになるじゃないの!」
不満を隠そうともせず、彼女は苛立たしげに言い募る。
「今では、貴族のご令嬢たちの間で『責任感のない養子』だなんて噂まで立っているのよ? これ以上、フレイヤの名誉まで傷つけられてはたまらないわ!」
それを受けて、エドムンド侯爵が重く息を吐く。
「……カインは昔から自分の考えを持っている。貴族社会に関わる気がないのなら、無理に押し付けることはないだろう。」
呆れを滲ませながらも、どこか諦めたような声音だった。
だが、その言葉に、イザベル夫人はさらに眉をひそめる。
「無理に押し付ける必要はない?——ふん、結局のところ、あなたがあの子を甘やかしているからでしょう?」
鼻を鳴らしながら、彼女は鋭い視線を向ける。
「私はごめんよ、フレイヤの婚姻まであの子のせいで台無しにされるなんて、まっぴらごめんだからね!」
その瞬間——
「……お母様、この件は父様にお任せしましょう。」
柔らかな声音が、場の空気を静める。
それは、フレイヤ。
イザベル夫人の娘であり、サイラスの「義理の妹」。
彼女の声は、どこか困ったような響きを帯びていた。
母親の怒りを宥めるつもりなのか、それともただ余計な口を挟みたくないのか——
少なくとも、彼女はサイラスを擁護するつもりはないようだった。
——その場に立ち尽くしながら、サイラスは静かに話を聞いていた。
だが、決して姿を現さなかった。
そして、議論を遮ることもなかった。
——これが、彼の「家族」。
だが、彼にとって、彼らとの関係は**ただの表面上の「親族」**に過ぎなかった。
イザベルの嫌悪も、
エドムンドの諦観も、
フレイヤの沈黙も——
どれひとつとして、彼の中に響くものはない。
サイラスはふっと瞼を伏せ、
かすかに口元を吊り上げる。
——勝手に言っていればいい。
もはや、彼が気にすることなど何もない。
サイラスはその場に留まることなく、
静かに背を向けると、そのまま歩き去った。
足音が遠ざかり、やがて屋敷の廊下に溶けていく。
——この家の争いは、彼には何の関係もなかった。




