(128) 背中の信頼
馬車の車窓から見える帝都の街並みは、昼下がりの陽光に包まれ、活気に満ちていた。
石畳の道に土埃が舞い、焦げたパンの香りと石炭の匂いが入り混じる。蹄の音と露店商人の呼び声が交差し、遠くにはゴシック様式の尖塔が薄雲を突き刺していた。塔が落とす影は長く、街全体に静かな重厚さを与えていた。
御者台ではノイッシュが手綱を握り、隣にはアレックが鋭い目つきで周囲を警戒していた。
馬車は太陽街区へと入り、やがて目的の黒薔薇劇場の近くへと辿り着いた。
陽に照らされた灰色の外壁と繊細な彫刻窓が、劇場の年季と重みを感じさせる。
ノイッシュは馬を止め、肩越しに声をかけた。
「劇場までは歩いて十分ほどだ。ここで降りるといい。」
「ちょうどいいわね。」
エレは微笑み、マントを整えながら答えた。
「この辺の空気を感じてみたいし、少し歩きたいと思ってたの。」
ノイッシュは少し眉をひそめ、半ば呆れたように呟いた。
「さすが貴族様だな……芝居を観に行くだけでも雰囲気重視かよ。これじゃあ観劇じゃなくて、優雅な散歩って感じだ。」
「任務に集中。」
アレックが簡潔に言い放つ。
ノイッシュは肩をすくめ、ぼそりと続けた。
「騎士団が解散する前に、貴族の付き人になっちまったか……」
エレは彼らの会話を聞きながら微笑を浮かべ、ふと後ろを振り返った。
——リタの姿はなかった。
本来なら侍女として同行するべきだが、今回は屋敷に残ることを選んだ。
出発前、リタはこう言った。
『今日は屋敷で整理しておきたいものがあります。観劇は性に合わないですし、私が同行すれば、あの二人も余計に気を遣うでしょう?』
その口調はあくまであっさりとしていたが、エレには分かっていた。
リタとの関係はもはや「主人と侍女」では収まらない。
亡命の日々を共に生きたあの時間が、言葉以上の絆を築いていたのだ。
「そういえば、サイラス殿下は言ってたわよね?」
エレは二人に向き直り、くすっと笑う。
「伝令兵とか護衛に転職すればいいって。」
アレックは一瞬驚き、苦笑しながら答えた。
「覚えてたか、それ。」
「ねえ、あなたたちはどうしてサイラスに付くことにしたの?」
エレは少し首を傾げ、素直な興味を込めて尋ねた。
ノイッシュとアレックは目を合わせ、どちらが話すかを無言で確認し合う。
そして、アレックが口を開いた。
「話せば長くなるけど……俺たちは軍学校で知り合ったんだ。あそこは試験でしか入れないから、貴族学院とは違って、貧乏人でも努力すれば入れる。年齢も出身もバラバラさ。」
彼は自分を指さしながら続けた。
「俺は平民出身。入学だけでも一苦労だったし、ノイッシュは没落貴族で、自力で上を目指すしかなかった。」
「じゃあ、サイラスは?」
エレが尋ねると、アレックは肩をすくめる。
「俺たちよりずっと若かった。当時は『どうせコネで入ったんだろ』って言う奴も多かったな。だけど——」
「本人はそんな噂、全然気にしてなかった。」
ノイッシュが淡々と補足する。
「誰にも媚びず、群れず、必要最低限しか話さない。完全な一匹狼だった。」
「でも、演習ではバケモノだった。」
アレックが笑みを浮かべながら言う。
「新兵の頃、俺とノイッシュは模擬戦で危うく脱落するところだったんだ。敵が側面から奇襲してきて、万事休すってとき、サイラスが単身で突っ込んできて時間を稼いでくれた。」
「助けてくれたの?」
エレは驚きを隠せずに訊いた。
「正確には、俺たちを助けたんじゃなくて、作戦を成立させるために必要だっただけさ。」
アレックが苦笑する。
「つまり、合理的な判断ってこと?」
エレが眉をひそめると、ノイッシュが静かに答える。
「そう。ただ……あいつは感情がないわけじゃない。深く、隠してるだけだ。」
アレックが頷く。
「話しかければ返してくれるし、戦術のアドバイスもくれる。でも、決して自分からは近づかない。それでも俺たちは自然と、彼の周りに集まっていた。」
「軍校では皆、将来のために派閥を作り、権力者に取り入ろうとする。でも、サイラスは誰の傘にも入らず、ただ実力だけで頭角を現した。」
「言葉じゃなくて、背中で示すタイプだな。」
ノイッシュがぽつりと呟く。
アレックの表情が少しだけ真剣になる。
「俺たちが彼を選んだっていうより……気がつけば、彼についていく道しか見えなくなってた。信頼されるには時間がかかるけど、信頼されたら、絶対に裏切らない男だ。」
「信頼って……彼にとって、きっとすごく大事なものなんだろうね。」
エレはそっとつぶやいた。
彼の不器用な優しさを知っているからこそ、その言葉には重みがあった。
「簡単には渡さないよ、あいつの信頼は。」
アレックが軽く笑いながらも、どこか誇らしげに言った。
「でも、一度信じてくれたら、全力で守ってくれる。」
ノイッシュも、静かにその言葉に頷いた。
中空から差し込む日差しが石畳の上にまだら模様を描く。
エレは微笑みながら、心の中でそっと誓った。
——サイラスに伝えなければならない。
「あなたが私を信じても、もう傷つくことはない」
と。
それは、彼女自身の決意だった。




