(127) それぞれの戦場
エレはようやく浅い眠りに落ちたものの、心から休まったとは言い難かった。
目を開けたときには、隣にいたはずのサイラスの姿はもうなかった。
彼女は一瞬戸惑い、そっと手を額に当てる。
昨夜見た夢の断片がまだ頭の片隅に残っており、現実に戻りきれないような感覚に包まれていた。
そのとき、扉の向こうから静かなノックの音が聞こえた。
「お嬢様、もうお目覚めですか?」
リタの柔らかな声が響く。
「入っていいわ。」
エレは軽く息を整え、夢の影から自分を引き戻すように答えた。
リタは扉を開けて入ってきた。手には洗面用の温水と清拭用の布を持っており、手慣れた所作でエレの身支度を整えていく。
彼女はちらりとエレの顔を見やり、控えめな声で尋ねた。
「昨晩……よく眠れましたか?」
一瞬、エレはごまかそうとしたが、結局は小さくため息をついた。
「まあまあかな。ちょっと変な夢を見ただけ。」
リタはそれ以上追及せず、丁寧に髪を整え、服を着替えさせると、一礼して部屋を後にした。
準備を終えたエレが部屋を出ると、ちょうど廊下の先に軽装のサイラスの姿があった。
彼は壁に寄りかかりながら、彼女の姿を見つけると口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「ちょうど起こしに行こうと思ってたところだ。」
その言葉に、エレの胸の奥に微かな感情が揺れる。
理由は自分でもよくわからなかった。ただ、昨夜の夢のせいだろうか――彼の姿を目にした瞬間、どこか複雑な想いが胸を締めつけた。
ふと、思いついたように彼女は問いかけた。
「……サイラスは、悪い夢を見ることってある?」
その質問に、サイラスは一瞬まばたきをした。
琥珀色の瞳が彼女をじっと見つめる。何かを測るような視線。
そして、ほんの短い沈黙のあと、彼は静かに答えた。
「……たまにな。」
そう口にした次の瞬間、彼は何の前触れもなく、エレをそっと抱き寄せた。
「……えっ?」
エレは思わず目を見開く。
衣越しに伝わる体温と、彼の安定した心音が、妙に心地よく感じられる。
「でも昨夜は、よく眠れた。」
彼の低く柔らかな声が、耳元で囁くように響いた。
まるで彼女の不安を受け止めるような優しさだった。
そして、そのまま彼はエレを離すと、彼女の手を取って軽く引いた。
「行こう。ヴェロニカが待ってる。」
彼女が言葉を返す前に、彼はすでに軽やかに歩き出していた。
エレは、彼の手に引かれるままに足を進めながら――
心の奥で、そっと呟いた。
(……たまに、なんて嘘。あなたもずっと苦しんでるのに。)
それでも、今はただ、その手の温もりを信じて、歩みを止めなかった。
階下に降りると、ヴェロニカがすでに待っていた。
彼女の手には一通の手紙があり、サイラスとエレが近づくと、そのまま無言で差し出してきた。
サイラスはそれを受け取り、封蝋に刻まれた王家の紋章を一瞥すると、ゆっくりと封を切り、手紙の内容に目を通す。
「王太子の婚約舞踏会への招待状か……」
彼は眉を少し上げ、口元に薄く笑みを浮かべた。
「そうよ。」
ヴェロニカは腕を組み、少し意地の悪い微笑を浮かべながら言った。
「カイン・ブレストとしては断っても、サイラス・ノヴァルディアとしては無視できないわよね?」
サイラスは片眉を上げてヴェロニカに視線を向けた。
「エドリック、俺に主役を奪われるのが怖くないのか?」
その問いかけに対し、ヴェロニカはまるで「それこそ望んでいることよ」とでも言いたげに、口元を緩めた。
彼女が軽く手を振ると、数人の使用人が木箱を運び入れてきた。
箱の蓋が開かれると、中には二着の見事な礼装が入っていた。ひとつはサイラス用の貴族正装、もうひとつはエレ用の礼装。どちらも生地から仕立てまで一級品で、明らかに事前に用意されていたものだった。
「これは……?」
エレは少し驚いたように目を見開いた。
「あなたたちの礼装よ。」
ヴェロニカはさらりと答えた。
「招待されるだろうと思って準備しておいたの。」
彼女は意味ありげな微笑を浮かべる。
「明日の夜は、華やかに登場してもらうわよ。これはただの舞踏会じゃない。」
エレはサイラスに視線を向けた。
彼はそれに対して、ただ静かに微笑み、拒否の色はまったく見せなかった。
サイラスは招待状を近くのテーブルに無造作に置き、袖を整えるとエレに向き直った。
「今日は少し用がある。太陽街区に行って、何人かと会う予定だ。だから一旦別行動になる。」
その言葉を聞いたエレは、サイラスの装いに目をやる。
普段の貴族風の服装とは異なり、動きやすさを重視した簡素な装い。
——つまり、陽の当たらない場所に行くということだ。
会うのは表に出せないような相手。そう、彼が何をしに行くかは言わなくても分かる。
「そう……」
彼女は軽く頷き、ふと唇に笑みを浮かべる。
「じゃあ、私は『黒薔薇劇場』でも見に行こうかな。」
「劇場?」
サイラスが少し眉をひそめた。
「うん。帝都の演劇は、帝国の歴史や伝承を題材にすることが多いの。
異世界の血を持つ存在がどう語られているか……民の意識を知る手がかりになるかもしれない。」
そう言った彼女の瞳には、ただの観劇ではないという意思が宿っていた。
ヴェロニカが以前、彼女にこう言っていたのを思い出す。
——黒薔薇劇場はただの舞台ではない。特定の層に向けた「密報の発信地」でもあるのだ、と。
サイラスはしばし黙考したのち、静かに頷いた。
「ノイッシュとアレックを同行させよう。」
エレは少し驚いたように彼を見た。
反対されると思っていたのだろう。
「心配じゃないの?」と問うと、
サイラスは口元をゆるめ、何気ない口調で答えた。
「心配してるさ。……でも、安全が確保されているなら、君の自由を奪う理由はない。」
その言葉に、エレの心の中にじんわりと温かさが広がる。
それはただの優しさではない。信頼と尊重、その両方が込められていた。
「じゃあ、決まりね。」
エレは微笑んだ。
「劇場って、戦場より危険なときもある。気をつけて。」
サイラスは静かに言う。
「緊張感、抜けないんだね……」
彼女が苦笑すると、
「戦士の癖みたいなものだよ。」
サイラスは冗談めかして言った。
互いに軽口を交わしながら、二人はそれぞれの目的地へと歩みを進めた。
——それぞれの「戦場」へ。




