表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
傷と血の誓い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

127/194

(127) それぞれの戦場

 エレはようやく浅い眠りに落ちたものの、心から休まったとは言い難かった。

  目を開けたときには、隣にいたはずのサイラスの姿はもうなかった。


 彼女は一瞬戸惑い、そっと手を額に当てる。

  昨夜見た夢の断片がまだ頭の片隅に残っており、現実に戻りきれないような感覚に包まれていた。


 そのとき、扉の向こうから静かなノックの音が聞こえた。


「お嬢様、もうお目覚めですか?」

  リタの柔らかな声が響く。


「入っていいわ。」

  エレは軽く息を整え、夢の影から自分を引き戻すように答えた。


 リタは扉を開けて入ってきた。手には洗面用の温水と清拭用の布を持っており、手慣れた所作でエレの身支度を整えていく。


  彼女はちらりとエレの顔を見やり、控えめな声で尋ねた。

「昨晩……よく眠れましたか?」


 一瞬、エレはごまかそうとしたが、結局は小さくため息をついた。

「まあまあかな。ちょっと変な夢を見ただけ。」


 リタはそれ以上追及せず、丁寧に髪を整え、服を着替えさせると、一礼して部屋を後にした。


 準備を終えたエレが部屋を出ると、ちょうど廊下の先に軽装のサイラスの姿があった。

 彼は壁に寄りかかりながら、彼女の姿を見つけると口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「ちょうど起こしに行こうと思ってたところだ。」

 その言葉に、エレの胸の奥に微かな感情が揺れる。

  理由は自分でもよくわからなかった。ただ、昨夜の夢のせいだろうか――彼の姿を目にした瞬間、どこか複雑な想いが胸を締めつけた。


 ふと、思いついたように彼女は問いかけた。


「……サイラスは、悪い夢を見ることってある?」

 その質問に、サイラスは一瞬まばたきをした。

  琥珀色の瞳が彼女をじっと見つめる。何かを測るような視線。


  そして、ほんの短い沈黙のあと、彼は静かに答えた。


「……たまにな。」

 そう口にした次の瞬間、彼は何の前触れもなく、エレをそっと抱き寄せた。


「……えっ?」

 エレは思わず目を見開く。

  衣越しに伝わる体温と、彼の安定した心音が、妙に心地よく感じられる。


「でも昨夜は、よく眠れた。」

  彼の低く柔らかな声が、耳元で囁くように響いた。


 まるで彼女の不安を受け止めるような優しさだった。

 そして、そのまま彼はエレを離すと、彼女の手を取って軽く引いた。


「行こう。ヴェロニカが待ってる。」


 彼女が言葉を返す前に、彼はすでに軽やかに歩き出していた。

  エレは、彼の手に引かれるままに足を進めながら――

  心の奥で、そっと呟いた。


(……たまに、なんて嘘。あなたもずっと苦しんでるのに。)


 それでも、今はただ、その手の温もりを信じて、歩みを止めなかった。




 階下に降りると、ヴェロニカがすでに待っていた。

  彼女の手には一通の手紙があり、サイラスとエレが近づくと、そのまま無言で差し出してきた。


 サイラスはそれを受け取り、封蝋に刻まれた王家の紋章を一瞥すると、ゆっくりと封を切り、手紙の内容に目を通す。


「王太子の婚約舞踏会への招待状か……」

  彼は眉を少し上げ、口元に薄く笑みを浮かべた。


「そうよ。」

  ヴェロニカは腕を組み、少し意地の悪い微笑を浮かべながら言った。

  「カイン・ブレストとしては断っても、サイラス・ノヴァルディアとしては無視できないわよね?」


 サイラスは片眉を上げてヴェロニカに視線を向けた。

「エドリック、俺に主役を奪われるのが怖くないのか?」


 その問いかけに対し、ヴェロニカはまるで「それこそ望んでいることよ」とでも言いたげに、口元を緩めた。


 彼女が軽く手を振ると、数人の使用人が木箱を運び入れてきた。

  箱の蓋が開かれると、中には二着の見事な礼装が入っていた。ひとつはサイラス用の貴族正装、もうひとつはエレ用の礼装。どちらも生地から仕立てまで一級品で、明らかに事前に用意されていたものだった。


「これは……?」

  エレは少し驚いたように目を見開いた。


「あなたたちの礼装よ。」

  ヴェロニカはさらりと答えた。

  「招待されるだろうと思って準備しておいたの。」


 彼女は意味ありげな微笑を浮かべる。

「明日の夜は、華やかに登場してもらうわよ。これはただの舞踏会じゃない。」


 エレはサイラスに視線を向けた。

  彼はそれに対して、ただ静かに微笑み、拒否の色はまったく見せなかった。


 サイラスは招待状を近くのテーブルに無造作に置き、袖を整えるとエレに向き直った。


「今日は少し用がある。太陽街区に行って、何人かと会う予定だ。だから一旦別行動になる。」


 その言葉を聞いたエレは、サイラスの装いに目をやる。

  普段の貴族風の服装とは異なり、動きやすさを重視した簡素な装い。

  ——つまり、陽の当たらない場所に行くということだ。

  会うのは表に出せないような相手。そう、彼が何をしに行くかは言わなくても分かる。


「そう……」

  彼女は軽く頷き、ふと唇に笑みを浮かべる。

「じゃあ、私は『黒薔薇劇場』でも見に行こうかな。」


「劇場?」

  サイラスが少し眉をひそめた。


「うん。帝都の演劇は、帝国の歴史や伝承を題材にすることが多いの。

  異世界の血を持つ存在がどう語られているか……民の意識を知る手がかりになるかもしれない。」


 そう言った彼女の瞳には、ただの観劇ではないという意思が宿っていた。

  ヴェロニカが以前、彼女にこう言っていたのを思い出す。


  ——黒薔薇劇場はただの舞台ではない。特定の層に向けた「密報の発信地」でもあるのだ、と。


 サイラスはしばし黙考したのち、静かに頷いた。

「ノイッシュとアレックを同行させよう。」


 エレは少し驚いたように彼を見た。

  反対されると思っていたのだろう。


「心配じゃないの?」と問うと、

 サイラスは口元をゆるめ、何気ない口調で答えた。


「心配してるさ。……でも、安全が確保されているなら、君の自由を奪う理由はない。」


 その言葉に、エレの心の中にじんわりと温かさが広がる。

  それはただの優しさではない。信頼と尊重、その両方が込められていた。


「じゃあ、決まりね。」

  エレは微笑んだ。


「劇場って、戦場より危険なときもある。気をつけて。」

  サイラスは静かに言う。


「緊張感、抜けないんだね……」


  彼女が苦笑すると、


「戦士の癖みたいなものだよ。」

  サイラスは冗談めかして言った。


 互いに軽口を交わしながら、二人はそれぞれの目的地へと歩みを進めた。


 ——それぞれの「戦場」へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ