(126) 血塗られた記憶
それは、あまりにも現実的で、身の毛もよだつ夢だった。
夢の中で彼女は、広大で静かな貴族邸に暮らすひとりの少女だった。
繊細な筆致の油絵が並ぶ長い廊下、手入れの行き届いた庭園、そして俯いたまま静かに動く数少ない使用人たち――
そこには、息をひそめるような沈黙が支配していた。
彼女には母がいた。
厳格でありながらも、どこか優しさを感じさせる女性だった。
「……本当に、賢い子ね」
女性はエレの頭を優しく撫でながら、静かに微笑んだ。
その声は心を落ち着かせるような柔らかさを帯びていた。
しかし母はいつも、窓辺にひとりで座り、遠くを見つめていた。
手には何か小さな物を握りしめ、どこか遠い世界に心を馳せているような表情だった。
「お母さま……何を考えてるの?」
そう問いかけると、女性はふと動きを止め、エレに視線を落とした。
その指先が頬に触れ、存在を確かめるようにそっと撫でた――
だが、答えは返ってこなかった。
――場面が変わる。
エレの両腕には、無数の傷が走っていた。
細く、深い傷跡が交差し、皮膚に痛みと共に刻まれている。
その痛みは、まるで長年繰り返された結果のように思えた。
彼女はぼんやりと、自分の手を見つめる。
この傷は、いったいどこで、誰に……?
思い出そうとしても、何も浮かばない。
「人を簡単に信じてはなりません」
耳元で、母の声が響いた。
けれど、それは以前のような優しい声ではなかった。
低く、冷たく、抑圧された怒りと憎しみを含んでいた。
彼女が顔を上げると、そこに立っていたのは――あの母だった。
だが、その瞳には、かつての慈しみはなかった。
ただ、陰鬱で冷たい、言いようのない敵意だけが宿っていた。
「……その目は、存在してはならない」
母はしわがれた声でそう呟き、震える指先でエレの左目に触れようとした。
身体は硬直し、逃げようにも動けない。
銀色に光る刃がゆっくりと持ち上げられ、
冷たい金属の輝きが目に近づき――
突如として、焼け付くような激痛が襲いかかった。
エレは悲鳴を上げ、必死にもがく。
視界が、鮮血で真っ赤に染まる。
――再び場面が切り替わる。
彼女は屋敷の廊下を走っていた。
心臓が激しく脈打ち、胸を締めつけるような予感が全身を駆け巡る。
何かが起きる、そう確信していた。
息を切らしながら、彼女はあの人を探していた。
いつもそばにいた、あのぬくもりを持つ影を――
そして、扉を開け放った瞬間、彼女の足が止まった。
――鼻をつくような血の匂いが、空気を支配していた。
呼吸が止まり、思考が崩壊する。
自分が、何をしたのか。
なぜ、こんなことになったのか――
視線を落とすと、自らの手があった。
血まみれの手。
赤く濡れた指の隙間から、滴り落ちる液体の温度が肌に伝わる。
声が出ない。
全身を恐怖が飲み込み、足元が崩れていくような感覚に襲われる。
――これは、夢なのか?
それとも現実なのか?
あまりにリアルなその光景に、理性が悲鳴を上げる。
彼女の呼吸は荒くなり、視界が暗転していく。
そしてすべては、深い闇の中に沈んでいった。
エレは、はっと目を覚ました。
胸は激しく上下し、呼吸は乱れ、額から冷たい汗が伝う。
指先は布団を握りしめるほどに強ばり、小刻みに震えていた。
まるで深海から浮かび上がってきたかのような息苦しさ。
それでも、まだ肺の奥に残るような窒息感が抜けきらない。
彼女の手は震えたまま、自分の左目をぎゅっと押さえつける。
刃が肌に触れたあの冷たい感触、裂けるような痛み――夢の中の感覚が、あまりに鮮明に残っていた。
「……これ、いったい何……?」
彼女はこんな夢を見たことがなかった。
これは未来を映す〈予知夢〉ではない。
これは――「過去」の記憶。
ゆっくりと手を離すと、視線は隣に横たわる人物へと移る。
そこには、いつもと変わらぬ穏やかな寝息を立てるサイラスの姿があった。
眉間に浮かんでいた疲れの影は幾分か薄れ、まるでようやく心を休めた少年のような表情。
エレはその横顔を見つめながら、夢の中で見たあの光景が脳裏によみがえる。
「……ありえない……」
低く呟いたその言葉に、自分自身が最も動揺していた。
これは単なる夢ではない。
――サイラスの記憶。
指先が再び震え、彼の手にそっと触れてみる。
その温もりの中に、彼が時折見せるあの震える手の面影が、確かに重なった。
エレの瞳がかすかに見開かれる。
……そうだ。かつて彼女はサイラスにこう問いかけた。
『……レオンが言ってた“ハナ様”って……あなたのお母さん……なの?』
彼は答えた。
『……それは、俺にとって……向き合いたくない過去なんだ。』
そのときは、そこに深く切り込むことを避けた。
けれど今――まるで自分がその記憶を体験したかのように、彼の痛みを、彼の恐怖を、確かに感じ取ってしまった。
エレは彼の手をそっと握りしめ、その体温を確かめる。
この過去が本当に彼のものなら――
それはきっと、彼が決して口にできなかったほどに、苦しく、哀しい記憶のはずだ。
だから、彼女は今、問いかけてはいけない。
彼の心がそれを語れる時を、静かに待つしかない。
彼女は心の中で、そっと自分に言い聞かせた。
「……あなたが話してくれるときが来たら、ちゃんと聞くから。」
目を閉じ、波立つ心を落ち着けようとする。
夢を見る前の、あの穏やかな時間に戻るために――
けれど、エレは知っていた。
この夜が、もう以前の夜とは違うのだということを。
彼女はもう、眠ることができなかった。




