(125) 選ばれた絆
エレはしばし沈黙した後、そっと拳を握り締めた。胸の内から湧き上がる感情を、もう抑えきれなかった。怒り、悔しさ、そして――この男への、どうしようもない哀しみ。
「……過去を覚えてないからって、あなたに心が動かないとでも思ってるの?」
その声は震えていた。だが、それは弱さからではなく、感情を抑えきれない激しさゆえだった。
サイラスがまだ答える前に、彼女は素早く手を伸ばし、彼の服の襟元を掴んで引き寄せた。
突然のことに、彼の琥珀色の瞳が大きく見開かれる。
そして――彼女は、彼に口づけた。
それは優しさではなく、激しさを伴った、ためらいのないキスだった。彼女の手は彼の衣を強く握りしめ、その力は、まるで彼を自分の前から一歩も逃がすまいとするかのようだった。
このキスに、退路はなかった。エレはその行動で語っていた。
――彼女は、彼を「選んだ」のだと。
唇が離れた時、エレは息を整えながらも、瞳に決意の光を宿して言った。
「……これで、少しは信じられた?」
サイラスはその場に立ち尽くし、瞳を揺らしていた。まるで、現実を受け止めきれないかのように。
喉が小さく鳴る。そして、しわがれた声が漏れた。
「……エレ……?」
彼女は逃げようとする彼を許さなかった。掴んだままの手を離さず、柔らかながらも決して揺るがない声で囁いた。
「ありがとう、サイラス。」
「生きることを選んでくれて、ありがとう。」
「私を……好きでいてくれて、ありがとう。」
サイラスの睫毛が震えた。まるで、心の奥底に触れられたように。
「いつもあなたは、自分が『選ぶ側』だと思ってる。」
エレは顔を少し傾け、彼を真っ直ぐに見つめた。
「でも、私にも選ぶ権利がある。責任でも、流されてるわけでもない。」
「私は、あなたが好き。サイラス。」
「感情の重さを比べることに意味なんてない。私は、あなたの隣にいたいと願ってる。それが、私の決意なの。あなたに否定はさせない。」
その言葉は、鋭くも温かく、確かに彼の胸を貫いた。
サイラスの心臓は、強く脈打っていた。
彼女の手がようやく襟から離れ、柔らかい声が続く。
「だから……もう疑わないで。怖がらなくていい。私は、変わらない。」
長い沈黙が流れた。サイラスは彼女の顔を見つめたまま、まるでその存在の真実を確かめるように、目を細めた。
そして――彼は静かに、だが確かな動きで、エレを抱き締めた。
それは強く、熱く、すべてを包み込むような抱擁だった。まるで、彼女を自分の命に溶かし込もうとするかのように。
エレはその腕の中で身を任せ、彼の激しい鼓動を感じていた。
「……そうか。」
サイラスの低く掠れた声が、彼女の耳元で震えた。
「何が?」
彼女が目を閉じたまま微笑むと、サイラスはそっと答えた。
「君は……ただの同情なんかじゃなかったんだな。」
そう呟いた彼の声には、かすかな安堵が混ざっていた。
「同情だけなら……私はこんなこと、言わない。」
エレは落ち着いた声で返した。
「あなたならわかるでしょ?私は、そういう女じゃない。」
サイラスは息を吐き、静かに笑った。そして、彼女の肩に額を預けるようにして目を閉じた。
「……ああ。わかってる。」
彼の言葉に、偽りはなかった。
エレはそっと彼の背中に手を回し、その想いを静かに、しかし確かに、受け止めた。
――この瞬間、彼らはようやく理解したのだった。
お互いの「選択」が、すでに二人を、固く結びつけていたということを。
サイラスは突然、エレの身体を抱き上げた。
次の瞬間、二人の身体はそのままベッドの上に倒れ込む。
「ま、待って……!」
エレは心臓が跳ね上がるのを感じ、思わず目を見開いた。予想もしていなかった展開に、頬が一気に赤く染まる。
――まさか、いきなり……!?
だが、サイラスはそれ以上の行動を取ることはなかった。
代わりに、深くため息をつきながら、まるで何かから解放されたように体の力を抜いた。
彼は目を閉じ、安堵に満ちた声で呟く。
「……安心したら、急に眠くなってきた……」
「……は?」
エレは拍子抜けしたように言葉を漏らし、緊張していた肩の力がすっと抜けていくのを感じた。
彼女が横目で彼の顔を覗き込むと、そこにあったのは――
本当に眠そうなサイラスの姿だった。
琥珀色の瞳は半ば閉じられ、長い睫毛が頬に淡く影を落とし、口元にはわずかに安らかな笑みが浮かんでいる。
いつもの皮肉や計算のない、心から安堵した微笑みだった。
エレの胸が、きゅっと締めつけられる。
彼女はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れる。
そのぬくもり、確かな鼓動に、彼が「生きてここにいる」という実感がじわじわと広がってくる。
「……寝たいなら、自分の部屋に戻ればいいのに」
そう言いながらも、エレの声には呆れの色こそあれ、拒むような気配はなかった。
だがサイラスは小さく笑いながら、子どものようにごろりと身をよじり、今度は彼女の腰に腕を回してくる。
「やだ」
「……サイラス」
眉をひくつかせながらも、エレは戸惑いと共に彼の新たな一面に驚かされる。
――この男に、こんな甘え方ができるなんて。
「せっかくだし……」
彼は目を閉じたまま、夢の中に溶け込むような柔らかい声で続けた。
「君が隣にいる……今が幸せすぎて、終わらせたくない」
エレは息を呑み、責めようとしていた言葉が喉で止まる。
今のサイラスは、何も隠していない。
どこかの国の皇子でもなく、軍の指揮官でもない――
ただ、素顔の彼がそこにいた。
その腕の温もりに包まれながら、エレの鼓動が少し速くなる。
彼女は抵抗することなく、そのまま息をつき、諦めたように彼の髪を撫でた。
「……まったく、あなたって人は」
その言葉には呆れと共に、深い慈しみが滲んでいた。
部屋の中では蝋燭の炎が静かに揺れていた。
暖かな灯りの下で、二人は言葉を交わすことなく、ただ静かに寄り添っていた。
この夜だけは、何も語らずとも伝わるぬくもりの中で、穏やかな時間が流れていった。




