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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
未来の岐路

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121/194

(121) 道を選ぶ者

 エドムンドは深い眼差しでサイラスを見つめ、穏やかな声色の中に意味深な響きを忍ばせて言った。


「ひとつ、前から気になっていたことがある。

  君が軍を辞めてブレストへ戻ったのは、エドリック殿下に“争う気はない”という態度を示すためだったと理解している。

  だが――なぜ、そのあとでエスティリアに向かった?」


 その問いに、サイラスはわずかに眉を上げ、くすりと笑った。

「侯爵、俺がエスティリアへ行ったこと……知ってたのか?」


 エドムンドは手にした杯を軽く揺らしながら、意味ありげに微笑んだ。

「当然だ。ブレストは辺境だが、そこから王都までの道のりは少なくとも一ヶ月。

  君が突然その姿を消したら、私が追跡をつけないとでも思ったか?」


 そして、静かに続けた。


「それに……あの頃の君は、何にも興味を示さなかった。

  未来にも、自分の命にも。与えられた道をただ歩き、生きているだけ。

  抵抗もせず、選びもせず、ただ生きていた。

  ……だが、あの時は違った。自らの意志で、初めて“道を選んだ”――それが、エスティリアへの旅だった。」


 サイラスは指で軽くテーブルを叩きながら何かを考えているようだったが、やがて淡く微笑んだ。

「……つまり、俺がリナ様に会いに行ったことも知ってたわけか?」


「もちろんだ。」

 エドムンドは静かに頷き、口調を変えずに続けた。


「だが、もっと不思議なのは――エスティリアから戻った君が、表面では相変わらず飄々としていながら、

  裏では領地の政務に関与し始め、交易を推進し、港の整備まで始めた。

  その変化は、ただの旅で済む話じゃない。」


 彼はサイラスをまっすぐに見つめた。

「……リナ様から、何か言われたのか?」


 サイラスの琥珀色の瞳がかすかに揺れる。

  彼は杯に視線を落としながら、あの夜のことを思い返していた。


 その時、エレが少し眉をひそめ、疑念を込めて口を開いた。

「……ちょっと待って。『もう一度行った』って、いつのこと?」


 エドムンドは答えず、静かにサイラスに視線を送る。


 サイラスは一拍置いて、平然とした口調で言った。

「……三年前のことだ。」


 エレの脳裏に、ひとつの記憶がよぎった――

  夜の王宮の庭園。月光の下、黒いマントを羽織った男が静かに佇んでいた光景。

  その男は「この方は?」という彼女の問いに、「迷子の使節だ」とだけ名乗った。


 彼女は目を大きく見開き、驚きの声を漏らした。

「……まさか、あの“迷子の使節だ”って……あなた?」


 サイラスはその問いに、肩をすくめて小さく笑った。


「ああ、俺だよ。」

 冗談めいた口調だった。


 エレは一瞬呆然とし、その後、思わず微笑んだ。

「……あの時、本当に迷ってたんだって信じてた。」


「嘘じゃないさ。」

 サイラスは肩をすくめ、手を組みながら淡々と答えた。


「……あの時の俺は、本当に“道を見失っていた”からな。」


 その一言に、エレの胸に何かが触れたような気がした。

  彼女は黙って彼を見つめる。


 あの夜の彼は、たしかに――寂しげで、言葉にならない孤独を背負っていた。


 何か言いかけたが、サイラスは彼女を見ようとはせず、エドムンドに目を戻した。


「いいや、リナ様は――何も言わなかった。」


「……何も?」

 エドムンドは意外そうに眉を上げる。


「ああ。」


 サイラスはワインをひとくち飲み、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「だからこそ、面白かったのかもしれないな。」


 エドムンドは意味深にサイラスを見つめた。

「それだけなのか?」


 サイラスは静かに杯を回し、瞳の奥に複雑な光を宿して言った。

「少なくとも……前よりは、ずっと“面白い”。」


 エレは横顔をそっと見つめた。

  その目は穏やかで、だが確かに、以前とは何かが違っていた。


 彼女は思った。


 ――これはきっと、「面白い」だけじゃない。

 けれど今の彼は、たしかに“サイラス自身”だった。


 揺れる燭火がサイラスの琥珀色の瞳に映り込む中、彼はゆるやかに目を伏せ、あたかも何気ない話題のように口を開いた。


「そういえば――今日、レオンが一つ、面白いことを聞いてきた。」


 エレとエドムンドの視線が同時に彼に注がれる。


「“貴方は、ハナ様が……どのようにして命を落とされたか、ご存じですか?”」

 サイラスの口調は淡々としていた。それはまるで、自分とは無関係の昔話を語っているかのようだった。


 しかし、その一言で、食卓の空気は静かに凍りついた。


 エドムンドは手にした杯の縁を指先で軽く叩き、わずかな音を響かせながら、何事もなかったかのように口を開いた。


「そうか。彼はその話で君を揺さぶろうとしたわけだ。」


 サイラスは返答せず、杯を傾けて中の赤ワインを静かに回す。

  液面に生まれる渦を見つめる彼の表情は、まるで何かを深く考えているようだった。


「当時、確かに“暗殺”だったという噂はあった。」

 エドムンドの声は静かだったが、重みがあった。


「だが、密報源は曖昧で、どの派閥が手を下したのか――はっきりとは分からなかった。」


 エレは不安げに眉を寄せ、サイラスを見つめながら口を開いた。

「じゃあ……レオンは真実を知ってて、あなたに復讐させようとしてるの?」


 サイラスの指先が杯の縁をなぞる。彼の目には一切の感情が浮かばなかったが、次の瞬間、ふっと小さく笑った。


「そう考えても……別におかしくはないだろうな。」


 エドムンドは杯のワインを一気に飲み干し、低く呟くように言った。


「君のことをよく知らない者ほど、“母の仇を討つために戻ってきた”と思う。

  あるいは、長年の屈辱を晴らすために帝都に戻ってきたと。」


 彼は少し言葉を止め、そしてサイラスをじっと見つめながら続けた。


「――そういう感情は、最も利用しやすいものだからな。」


 エレの胸に、淡い緊張が走る。彼女はサイラスの横顔を見つめる。

  しかしその顔には、やはり何の動揺も見えなかった。


 けれども、彼女は気づいた。

  彼の指が、ほんのわずかに止まった――その一瞬の沈黙が、何よりも雄弁だった。


「残念だったな。」


 サイラスは気だるげに笑い、杯をテーブルに置くと、ゆっくりとエドムンドを見た。

「――帝国の切り札、レオン・アルジェロでさえ……時には読みを誤ることもあるらしい。」


 燭火が揺れ、彼の眼差しの奥に冷静な光が宿る。


 エドムンドはその言葉に応じず、ただ小さく笑った。

  なぜなら、彼が知っていたのは――


 本当に重要なのはレオンではない。

  問題は、サイラスそのものなのだ。


 彼には怒りも、迷いも、そして操作されるような感情すらない。


 彼は――「復讐」など必要としていないのだ。

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