(12) 密やかな監視
ブレスト領主府の書斎。
灯火が揺らめき、夜の帳が静かに降りていた。
サイラスは書机に肘をつきながら、指先で机を軽く叩く。
その表情は沈着でありながら、深い思考を巡らせているようだった。
窓の外から微かに風が吹き込み、この辺境の街を夜の闇が覆う。
しかし、その静寂の裏では、確かに何かが蠢いていた。
「……それで、最近の動きは?」
低く問いかける。
その視線の先には、影の中に控える男の姿。
サイラスの副官——黒衣に身を包んだ、痩身で気配を消すことに長けた男が、静かに一礼した。
「例の舞姫、エレとその仲間のリタですが……」
彼の声は冷静で、感情の起伏を一切見せない。
「彼女たちは極めて慎重に行動しており、不審な人物との接触は一切ありません。ただし、明らかに情報を探っています。」
指先が僅かに止まる。
サイラスは眉をわずかに動かし、抑揚のない声で続けた。
「……何の情報を?」
副官は淡々と報告を続ける。
「どうやら、帝都へ向かう商人や冒険者を探し、何者かと繋がろうとしているようです。」
「ただ、彼女たちは非常に警戒心が強く、容易には誰にも心を開かない。我々も接触を試みましたが、慎重に距離を保ち、決して本当の目的を口にしようとはしませんでした。」
サイラスは沈黙し、燭火の揺らぎの中、深い琥珀色の瞳を細める。
——帝都への情報伝達、か。
彼女は誰と繋がろうとしている?
エドリックか、それとも……別の勢力か?
「引き続き監視を。ただし、刺激はするな。」
サイラスは静かに告げる。
その琥珀色の瞳は、燭火のゆらめきの中で深い思考の色を帯びていた。
「この街には情報通がいくらでもいる。彼女たちが本当に急いで人を探しているのなら……好きにさせてやれ。」
指先で椅子の肘掛をなぞりながら、口元に薄く笑みを浮かべる。
「どこへ辿り着くのか、見せてもらおうか。」
報告を終えた副官は、一瞬の沈黙の後、言葉を継ぐ。
「それと……リタが最近、短期の仕事を色々と請け負っています。どうやら、資金繰りがかなり厳しいようで。」
サイラスは喉の奥で小さく笑うと、興味深そうに椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「どれほど逼迫している?」
副官は冷静に分析を続ける。
「相当な困窮状態です。リタは荷運びや掃除の仕事をしており、最近では洗濯屋の仕事も引き受けています。」
「ただ……彼女の身元を考えると、必要以上に外部の人間と関わるのを避けているようです。あえて人と話さなくても済む仕事を選んでいるのでしょう。」
「ほう……」
サイラスは顎に指をあて、わずかに首を傾げる。
「金がないなら、手持ちの貴重品を売ればいい。だが、それもしていない……か?」
副官は静かに頷く。
「ええ。所持金が限られているのは間違いありませんが、何かしらの理由で貴重品には手をつけられないのでしょう。」
「さすがに ‘亡国の姫君’ らしからぬ振る舞いだな?」
サイラスはどこか愉快そうに呟く。
その声音には、微かな興味が滲んでいた。
副官はその言葉には答えず、ただ静かに彼を見つめる。
——エレの正体など、とっくに掴んでいるはずだ。
だが、サイラスはまだ何の手も打たない。
監視の厳しささえ強めることなく、ただ観察している。
なぜか——その意図が、彼には読めなかった。
「……彼女たちは、確かに逃亡中です。」
副官は淡々とした口調で言った。
「ですが、このままブレストで自由に動き回らせていても、問題はないのでしょうか?」
あえて「彼女はエスティリアの亡命王女」とは言わなかった。
だが、それを口にするまでもなく——二人の間では既に明白な事実だった。
サイラスは応えず、ただ静かに指先を動かし、左耳のピアスに触れる。
月長石の飾りが、燭火の明かりに照らされ、淡く青白い光を放っていた。
「俺の判断に疑問があるのか?」
感情の読めない声音。
その琥珀色の瞳が、副官を淡々と見つめる。
副官はわずかに頭を垂れ、静かに応じた。
「ただの忠告です。この女は、決して普通の舞姫ではない。彼女が本当に帝都の誰かと繋がろうとしているのなら……余計な厄介事を招く恐れがあります。」
「余計な厄介事」
あるいは、それ以上——帝国の情勢を揺るがす“変数”となる可能性すら。
サイラスはようやく視線を上げると、唇をわずかに歪めた。
「もし本当に帝都と繋がるつもりなら……」
喉の奥で小さく笑い——
「それはそれで、面白いと思わないか?」
副官は一瞬、沈黙する。
しかし、それ以上は何も言わなかった。
「引き続き見張れ。特に、誰と接触し、誰が資金を提供しているのか——それを洗い出せ。」
サイラスの声音はあくまで淡々としていた。
「必要なら……適当に“便宜”を図ってやれ。」
副官は一瞬、戸惑いを見せる。
わずかに視線を上げ、問い返した。
「……それは、一体?」
サイラスは口元に微笑を浮かべる。
だが、その琥珀色の瞳には、冷徹な光が宿っていた。
「奴らが求める相手に、無事辿り着けるようにする。そうすれば、本当の目的が見えてくる。」
そして、ゆるりと視線を落とし——
「……時には、獲物を逃がしてやることも、狩人の技術のうちだろう?」
意味深な言葉を落とす。
副官は短く息を呑み、すぐに姿勢を正して恭しく一礼した。
「かしこまりました。」
だが、彼はそのまま退室せず、もう一つ、別の報告を付け加える。
「もうひとつ——先ほど、帝都から舞踏会の招待状が届きました。」
その言葉に、サイラスはゆるく視線を上げる。
無言のまま、じっと副官を見つめた。
副官は一拍間を置き、さらに問いを続ける。
「例年通り、お断りしてもよろしいですか?」
——舞踏会。
帝都の社交界。
王族と貴族たちが、飾り立てた言葉と嘘の笑顔を交わしながら、権力を弄ぶ場。
サイラスの指先が、無意識に机の冷たい木目をなぞる。
その脳裏に浮かぶのは——
昼の狩猟での、エドリックの言葉。
「機会があれば、帝都の宴に顔を出せよ。」
「父上はお前のことを覚えているよ。」
「お前が思っている以上にな。」
一瞬、沈黙が落ちる。
そして、サイラスは淡々と告げた。
「……断る。」
副官は静かに頷き、即座に命を受ける。
「かしこまりました。」
サイラスは椅子から立ち上がると、何気なく袖口を整えた。
その仕草を見た副官が、すかさず問いかける。
「お出かけになりますか? 馬車を手配しましょうか?」
「いや……」
サイラスの声音はどこまでも淡白だった。
「屋敷の中を少し歩くだけだ。」
副官はそれ以上は問わず、恭しく一礼し、静かにサイラスを見送った。




