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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
孤剣の軌跡

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(116) 盤面の影

 ヴェロニカはサイラスの背が扉の向こうに消えるのを見届け、そのまましばらく視線を動かさなかった。

  その瞳には、かすかな動揺が宿っていた。


 ——あの表情は、今まで一度も見たことがない。


 過去に触れたくないような、けれど何かを必死に押し殺しているような……そんな、抑え込まれた感情が滲んでいた。

  あの男にとって、「ハナ」という名は間違いなく——何か、決定的な意味を持つ存在なのだと確信するには、十分だった。


 一方、レオン・アルジェロは閉ざされた扉を見据えながら、椅子の肘掛けに指を乗せ、無意識に軽く叩いていた。


  灰色の瞳は奥底に読めない光をたたえている。

  そして、ふと首を傾けると、黙って立つヴェロニカに目を向けた。


「……あれが、君が昔言っていた“あの男”なのか?」

 その声には、僅かに懐疑と好奇の色が混ざっていた。


 ヴェロニカはすぐには答えず、扉の方を静かに見つめ続けていた。

  思考はすでに、過去の記憶の中へと沈み込んでいた——


 ◆


 帝国軍事学院を卒業した直後、ヴェロニカが最初に派遣された実戦任務。

  それは「カイン・ブレスト」と名乗る男が率いる騎士小隊への配属だった。


 任務を終えた彼女が一人で屋敷へ戻った日のこと。

  書斎前の廊下で、レオンと出会った。


「どうだった? 初めての実戦は。」

 レオンは長椅子に座りながら、父親らしい口調で軽く尋ねた。


 ヴェロニカは一拍の間を置き、静かに問い返した。

「……“カイン”って、いったい何者ですか?」


 レオンの手がわずかに止まり、口元に笑みが浮かんだ。

「おや? 珍しく彼に興味を持ったようだね。」


「彼は……普通の貴族騎士には見えませんでした。」

  「何かのために戦っているというより——ただ、ただ“生き延びている”ような。」


 その冷静な分析に、レオンは短く黙った後、低い声で答えた。


「彼の本当の名は、サイラス・ノヴァルディア。

  ラインハルト皇の非嫡出子であり、“カイン・ブレスト”というのは仮の身分。エドムンド侯爵の養子というのも偽りだ。」


 ヴェロニカはわずかに目を見開いた。

  驚きというよりも、疑念の答えを得たという感覚だった。


「なぜ……その身分を隠していたんですか?」


「表向きの理由は“正妻の子ではないから”。だが——本当の理由は、『異世界の血』が流れていると疑われたからだ。」


「異世界の……血。」

 ヴェロニカの眉がわずかに寄る。聞いたことはある。その存在が帝国で持つ、曖昧な危険性を。


「それが広まれば、皇統の正統性が揺らぐ。だが、ラインハルトは彼を殺さず、むしろ敵国に人質として送り出した。……一種の“保護”だったのだよ。」


「殺すよりは、遠ざける方が生かせると。」


「そういうことだ。」


 ◆


 その後、「カイン」が軍を離れてブレストへ戻ったことを聞いた彼女は、以来、一度も彼に会っていなかった。

  ……つい最近、サイラス・ノヴァルディアが帝都に戻ったという報せを耳にするまでは。


 ——もう一度会ってみたい。


 そう思った時、自分でも理由が分からなかった。ただ、確かに胸の奥に何かが揺れたのだ。

 そして実際に再会して、彼女ははっきりと気づいた。


 ——あの男は、もう昔の「ただ生きていた」人間ではない。


 今の彼は、目的を持ち、計算をし、帝国の誰にも支配されない力を持ち始めている。

 レオンですら、彼の動きを読み切れない。


 ヴェロニカは思考を断ち切り、再び父を見た。

  その目は淡く静かで、だが確かな意志を孕んでいた。


「彼は……想像以上に、変わっていました。」


 レオンはふっと鼻で笑い、言った。

「てっきり、もっと陰気で恨みを抱えて戻ってくる男かと思っていたが——違ったな。」


 彼の目が細められる。

「いや、あれは……自分を隠すのが、あまりにも上手い。」


 その声は、まるで“掴みどころのない獣”を前にした獵人のようだった。


「それで……さっきあなたが言った“ハナ”とは誰のこと?」

 ヴェロニカが低く問うた。

  その声色には珍しく、張り詰めた緊張が滲んでいた。


 レオンはすぐには答えず、閉ざされた扉を見つめたまま、口元にうっすらと笑みを浮かべる。

  どこか懐かしむような、あるいは次の一手を考える棋士のような——そんな思慮深い表情だった。


「……ハナ、か。」

 言葉の響きには、含みがある。回想の色もあれば、観察者としての冷静な興味もあった。


「だが、それよりも興味深いのは——」

  彼はくるりと振り向き、淡々とした口調で娘を見やった。

「……なぜ彼は、彼女の名を口にしたくなかったのか、だ。」


 ヴェロニカは黙ったまま、ただじっと父の視線を受け止めた。

  そのまなざしの裏には、何か言いかけて飲み込んだような静かな葛藤が滲んでいた。


 レオンは目を細め、ふっと唇の端を上げた。

「……あの若者は、思っていた以上に、手強い。」


 その独白めいた呟きに、ヴェロニカは一歩踏み出すように口を開いた。


「それなら、今この場で訊かせて。……サルダン神聖国が武装派に接触しているという噂、本当なの?」

 父の名前を呼ぶ時のような、硬い声音だった。


 レオンはその問いに、わずかに眉を上げた。

  そして、次の瞬間、声をあげて笑い出す。

  おかしそうに袖口を整えながら、からかうような口調で言った。


「おやおや、ヴェロニカ。帝国秘密機関に身を置く者が、こんな質問をしてくるとはな……自分で調べるべきことだろう?」


 彼女の瞳は冷たく、挑むように返す。


「もしそれが事実なら——私は黙っていない。」

 レオンの笑みは徐々に薄れ、しばらく彼女を見つめたまま、沈黙のあと低く言った。


「……もし君が、それがラファエットの手口だと見抜けていないのなら——私は娘として少し失望するぞ。」


 ヴェロニカの眉がほんのわずかに動いた。

  父がこうして言葉にする時、それはすでに確信に近いということだった。


 しばらくの静寂ののち、彼女は低く問う。

「……つまり、サルダンは武装派に接触した、ということ?」


 レオンは正面からの問いに答えず、ゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩み寄る。

  窓の外、赤獅堡の訓練場を見下ろしながら、静かに語り始めた。


「ヴェロニカ……帝国の未来は、もはや王太子とサイラスの綱引きだけでは決まらない。

  サルダン、エスティリア……そして、まだ姿を見せぬ勢力たちが、水面下で盤面を動かしている。」


「重要なのは、誰が誰と手を組むかじゃない。

  ……この盤面の“支配者”が誰になるかだ。」


 ヴェロニカは静かに目を細め、低く問いかけた。

「……あなたは、どちらに立つつもりなの?」


 父の答えは、あまりに明快で——あまりに含みがあった。


「私は常に、勝つ可能性が最も高い側につく。」


 ヴェロニカは拳を軽く握りしめ、一度深く息を吸った。

  それ以上の言葉を口にせず、軽く一礼すると、背を向けて部屋を出ていった。


 レオンはその背中を見送りながら、かすかな笑みを浮かべる。

「……帝国の未来か。ふむ、面白くなってきたな。」

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