(112) 暁の悪夢
エレはサイラスの部屋の前に立ち、そっとドアをノックした。
「サイラス?」
静かに名前を呼ぶが、しばらく待っても中から返事はない。
……また、昨日と同じ?
小さくため息をついた彼女は、そっと閂を握り、静かに扉を開けた。
帷幕の隙間から差し込む朝の光が、寝室のベッドを柔らかく照らす。サイラスは横になったまま、静かに呼吸をしていた。だが、その額には汗が滲み、眉間にはうっすらと皺が寄っている。まるで何か悪夢を見ているかのように。
エレはベッドのそばまで歩み寄り、彼の様子を覗き込んだ。
——明らかに、安らかな眠りではない。
彼の指先がわずかに震え、シーツを掴む手はこわばっている。
「……サイラス?」
彼女は再び、今度はさらに低く名前を呼び、そっと額に手を伸ばした、その瞬間——
彼の目が、ぱっと開かれた。
次の瞬間、彼の手がエレの手首を鋭く掴んだ。
「……!」
驚いた彼女は息を呑む。逃れる間もなく、彼の力強い指が彼女の手首をしっかりと拘束していた。
サイラスの瞳はまだぼんやりとし、朝の光を受けて琥珀のように光るが、その奥には鋭い警戒と醒めきらぬ冷たい光が残っていた。
だが、エレの氷のように澄んだ青い瞳が視界に映った瞬間——
その表情がわずかに緩み、視線にようやく意識が戻ってきた。
「……エレ?」
エレは少し驚いた表情のまま見つめた。言葉を発しようとした瞬間、サイラスはまるで自分の行動に気づいたように、急いで手を放した。
「……すまない。」かすれた声で、彼は言った。「そういう風に触れるのは……危険だ。」
彼女は軽く手首をさすりながら、小さく首を傾げる。
「悪夢でも見てたの?」
サイラスはすぐには答えず、額に手を当てて目を閉じた。まだ、夢の残滓が意識を離れていないようだった。
「……覚えていない。」低く、曖昧に答えた。
エレは彼の額に残る汗を見つめ、静かに言った。
「でも……さっきのあなた、すごく苦しそうな顔してたよ。本当に、何も覚えてないの?」
サイラスは沈黙のまま、わずかに眉をしかめて記憶を探るような仕草をするが——浮かぶのは断片的な映像だけ。霧に包まれたような、不確かな記憶。
「……断片的なものばかりだ。気にするようなものじゃない。」そう言いつつも、彼の指は無意識に左目のあたりを押さえていた。
そしてふと思い出したように、彼はエレに視線を向けた。
「……そういえば、君の“夢”は? 最近……予知夢は見ていないのか?」
エレは少し驚いた表情を見せ、首を横に振った。
「ううん、最近はまったく……変な気配もないし。正直、この能力の仕組み自体もよくわかってないの。」
サイラスは数秒間、黙って考え込んだ。予知能力はもともと不安定なもの。だが、こうも完全に沈黙するのは、どこか不自然だ。
力が弱まったのか? それとも、何者かが“未来”そのものに干渉している?
彼はその疑念を口にはせず、代わりに話題を変えるように、わざと軽く口を開いた。
「にしても……朝っぱらからよく来るな。勤勉なお姫様だ。」
エレは肩をすくめ、皮肉っぽく笑う。
「誰かさんがいつも寝坊するからよ。」
サイラスは肩をすくめ、ベッドの中で伸びをしながら言う。
「……朝の布団って、どうしてあんなに人を堕落させるんだろうな?」
「その言い方、成長してないって自分で証明してるようなものよ。」
彼女はため息をつきながらも、目元には笑みが浮かぶ。
サイラスは上半身を起こし、だらしなく開いたシャツの胸元がのぞく。鍛えられた体が、いかにも「起き抜け」という様子をしていた。
それを見たエレは、ぱっと目を逸らし、わずかに咳払い。
「早く支度して。ヴェロニカがもうすぐ迎えに来るわよ。」
「ふう……少しは寝坊させてくれてもいいのにな。」
「動かなかったら、ノイッシュとアレックに引きずり出してもらうから。」
「……お前、容赦なさすぎだろ。」
エレはくすりと笑いながら振り返り、意味ありげに言った。
「それ、あなたに教わったのよ。」
サイラスは小さく笑って、ベッドの端に座りながら、彼女の背中を見送った。
そしてそっと左耳に触れる。そこには、月長石のピアスがひんやりとした感触を残している。
——あの夢は、本当に“ただの断片”だったのだろうか。
朝陽の中、サイラスとエレが屋敷の玄関を出ると、庭にはすでに馬車が待機していた。石畳の小道に朝の光が降り注ぎ、木々の影が風に揺れる。涼やかな朝の空気が肌を撫でるように流れていた。
馬車の傍らに立つヴェロニカは、姿勢正しく静かに彼らを迎えた。彼女は軽く一礼し、礼節を忘れない口調で告げた。
「殿下。バーンより伝令がありました。『例の物』が完成したとのこと。本日、殿下ご自身でご確認いただきたいとのことです。」
「ほう、随分と早いな。」
サイラスはわずかに眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。「さすがバーンだ。思っていた以上に手際がいい。」
「彼は職人です。」
ヴェロニカは淡々と返した。「明確な目的さえあれば、作れぬ物などありません。」
サイラスは曖昧に肩をすくめ、後ろに控えるノイッシュとアレックに目を向けた。
「今日は赤獅堡へ行く。二人も同行してもらう。」
「馬車に乗りますか?」
ヴェロニカが問うと、ノイッシュが軽く笑って答えた。
「いいえ、自分たちは馬で行きます。その方が性に合ってるので。」
「おいおい……」
アレックは呆れたように額を押さえた。「なんだその“従者です”みたいな言い方は……」
「事実でしょう?」
ヴェロニカは冷ややかに返した。揶揄の色がわずかに滲む。
ノイッシュは肩をすくめると、馬に飛び乗った。「まあ、馬の方が落ち着くよ。」
「まったくだな……」
アレックもため息混じりに手綱を握った。
その頃、エレはサイラスに手を取られながら馬車へと乗り込む。続いてサイラスも席に着き、最後にヴェロニカがすべての準備を確認した後、馬車に乗り込んだ。
屋敷の前、階段の下ではリタが布巾を手にしながら静かに彼らを見送り、いつものように柔らかい微笑を浮かべていた。
「出発を。」
ヴェロニカの指示で御者が手綱を鳴らすと、馬車と騎馬隊は共に屋敷を離れ、帝国の軍事中枢——赤獅堡へと向かった。




