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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
狩猟場の探り合い

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(11) 鹿肉の香り

 夜の帳が降りる頃、ブレストの街は活気づいていた。


 酒場には暖かな灯りが灯り、舞姫たちの鈴の音と楽師の奏でる旋律が響き渡る。

 酒客たちの笑い声と交じり合い、この街の夜を彩る賑やかな一幕を作り出していた。


 エレは舞台を降りたばかりだった。

 まだ薄絹の舞衣もそのままに、息を整えながら楽屋へ向かおうとしたその時——


「今日はよく踊ったね。ほら、温かいうちに飲んでおきな。」


 女将の声がかかる。

 振り向くと、湯気の立つスープが差し出されていた。


 エレは一瞬だけ戸惑いながら、それを見下ろした。

 濃厚な香りが立ち昇る深いスープ。


 表面には鹿肉の切り身と、煮込まれて白くなった野菜が浮かんでいる。

 鹿肉の香ばしい匂いに、ほのかに混ざる酒の風味——


 思わず食欲をそそられる香りだった。


「……これは?」

 エレはわずかに間を置きながら尋ねる。


「鹿肉のスープさ。」

 女将はどこか愉快そうに微笑んだ。


「今日はあの方が狩ってきた獲物なんだよ。せっかくだから、あんたも食べてみな。」


 ——「あの方」?


 その言葉に、エレの眉がかすかに動く。


「……あの方?」

 思わず聞き返しながら、女将を見つめる。


「……あの方って?」


 女将はさらりと言う。

「この店の本当の店主さ。」


 エレは僅かに目を瞬かせる。

「ここの店主って、あんたじゃなかった?」


 すると、女将は一瞬ぽかんとした後、吹き出すように笑った。


「私? まさか。」


 手にした布で気ままにカウンターを拭きながら、軽やかな口調で言う。

「私はただの切り盛り役さ。本当のご主人……いや、“出資者”は別にいるのさ。」


 そう言いながら、彼女はさらりと付け加える。

「この酒場なんて、小さな商売さ。そのお方は、他にもいくつも事業を持っているよ。」


 エレは無意識に背筋を伸ばす。

 心の奥で、ある考えが浮かび上がった。


 ——この街には、経済を握る投資家がいる?


 もし、そんな人物がいるのなら——


 女将に仲介を頼み、資源を得ることもできるかもしれない。

 それどころか……エドリックへの道を、より早く切り拓ける可能性も。


 エレは胸中の思惑を押し隠し、表情を崩さずに問いかける。

「……その方って、どんな方なんですか?」


 女将は周囲をちらりと見渡した。

 誰もこの会話に注意を払っていないことを確認すると、声を潜める。

「……どの方のことを聞いているんだい?」


 エレは一瞬、息をのむ。

 だが、すぐに微笑み、何気なさを装って肩をすくめた。


「ただの好奇心ですよ。」


 女将は彼女を一瞥する。

 ほんの一瞬、不審そうな色を宿した目。


 だが、深く追及することはなく、低く囁いた。

「……カイン様だよ。でも、他言は無用さね。」


 エレの指先が、かすかに止まる。


「……カイン様?」

 顔を上げ、女将の表情を探るように見つめる。


「そうさ。カイン・ブレスト。侯爵様の養子でね。」


 女将は声を潜めながら続ける。

「表向きはお気楽な貴族坊ちゃんさ。酒や賭け事に興じる、ただの道楽者……だけどね。」


 言葉の端に、慎重な響きが混じる。

「ブレストの経済は、実質、彼が支えてるんだよ。」


 エレの瞳が、わずかに揺れる。


「港の貿易がどうして急に発展したか、知ってるかい?」


「……」


「カイン様が私財を投じて港を整備したのさ。それだけじゃない。外国の商人を呼び込んで、この街を交易の要にしたのも彼だ。」


 女将は手元の布を弄びながら、さらりと付け加える。

「それに、この酒場もね——」


「……?」


「私が仕切ってるように見えるけど、本当の経営者はカイン様さ。ここの商売、すべて彼の資金で回ってるんだよ。」


 エレはスプーンを置いた。

 長い睫毛が、かすかに震える。


 脳裏に浮かぶのは——あの夜の、黒牙くろきばの件。

 あの冷酷で、そして手際の良すぎる処理。


 彼は単なる“特別な立場の貴族”——

 そう思っていた。


 多少の武力を持ち、戦える程度の男だと。

 だが——今の話を聞く限り、それだけでは済まない。


 この街の経済を支配し、

 自らの手で 裏社会を統制し、

 獲物を正確に狩る鋭い腕を持ち、

 領地全土に広がる事業を展開している——


 そんな男が、本当に“普通の貴族”の枠に収まるだろうか?


 エレは胸中の疑念を押し隠し、湯気の立つ椀を持ち上げた。

 そっと息を吹きかけ、何気ない口調で探りを入れる。


「……ねえ、女将さん。」


「カイン様が領地を動かしていることを、

 わざわざ隠している理由って……何だと思います?」


 問いを聞いた瞬間、女将は一瞬きょとんとした。

 だが、すぐにくすっと笑い、肩をすくめる。


「さあねえ、それは私ら庶民が詮索するようなことじゃないさ。」


 そう言いながらも、彼女は少しだけ間を置き、

 声を落として静かに付け加える。


「……でもね、私にはどうしても、あの方が“遊んでるだけ”には見えなくてね。」

「でなきゃ、ブレストなんて、とうに滅茶苦茶になってるはずだよ。」


 エレは微かに眉を動かすが、余計な言葉は挟まなかった。


 女将はわずかに首を振り、どこか含みのある笑みを浮かべる。

「本人も気にしちゃいないんじゃないかね? 流言だろうが何だろうが、どう生きるかは自分次第さ。」


 エレの指が、椀の表面をゆっくりとなぞる。

 波紋のように、思考が静かに広がっていく。


「まあ、そんな難しいことは考えずに、さっさと食べちまいな!」


 女将はぱんっと肩を叩き、冗談めかした声で笑った。

「細い体してたら、踊り子なんて務まらないよ!」


 エレは穏やかに微笑む。


 何も言わず、静かにスープを掬い、口へと運ぶ。

 ——けれど、心の内では、さっきよりもずっと強い波が渦巻いていた。

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