(108) 盤上の暗流
サイラスはしばらく沈黙したまま、やがて小さく息を吐いた。
その声はいつになく真剣で、静かな熱を帯びていた。
「エレ……エスティリアの政変について、君が知っていることを、もっと聞かせてほしい。」
エレはわずかに息を吸い込み、目を伏せたまま語り出す。
それは彼女にとって、まだ傷の癒えていない記憶だった。
「エスティリアの統治体制は……もともと、聖女と王権の結びつきが前提だったの。」
彼女の声はかすかに震えていたが、それでも丁寧に言葉を選びながら続けた。
「王族の男子は異世界の聖女を娶り、その血統によって神聖性と王権の正統性を保ってきた……それが、エスティリアの秩序だった。」
サイラスは黙って耳を傾けていた。
「でも、その秩序はもう壊れたわ。」
エレの声には、次第に怒りと痛みがにじみ始める。
「民はもう王族を信じていない。貴族たちは腐敗し、混乱が広がる中で、“聖女の血”もただの権力の道具として見なされてしまった……一部の人々は周辺諸国に助けを求め始めている。」
彼女は拳を膝の上で強く握りしめた。指先が白くなるほどに、彼女の胸の内は苦悩で満ちていた。
サイラスは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ後、ゆっくりと問いかけた。
「国王、あるいはリナ様は、この内乱を察知していなかったのか?」
「分からない……」
エレは首を振った。声は震え、目にはかすかな陰りが宿る。
「すべては、あまりにも急だったの。王宮は混乱に包まれて、私は数人の騎士とリタに守られて、馬車に乗せられ、逃げるしかなかった……」
彼女は一瞬、言葉を止め、続けた。
「思い返せば、確かに……あの時、王族を裏切ろうとしていた者たちがいたの。貴族だけじゃなく、王族の中でも、直系じゃない者たちが。」
「つまり、これは単なる反乱ではなく、王家内部の権力闘争……」
サイラスは冷静に言葉をまとめた。
エレは深く頷いた。
「でも……彼らに政変を起こすほどの力があったの?」
サイラスの声は低く、目には鋭い光が宿る。
「それとも、裏で糸を引いていた存在がいるのか?」
エレの肩がわずかに震えた。
「……サルダン神聖国……」彼女は低く呟いた。
「あなた、まさか……?」
「疑っているわけじゃない。」
サイラスの声は重く、そこには苛立ちと苦悩が滲んでいた。
「政変が起きた直後、俺は人を使って調査させた。あの時、君には全部を話していなかったが——」
彼はそっとエレの手を取り、その指先を優しく撫でる。
その手は、彼女への慰めであり、自身の揺れる心の支えでもあった。
「調査の結果、サルダン神聖国が……やはり関与していた。」
エレは言葉を失い、その場に凍りついた。
それは予想していた答えだった。
それでも、どうしても受け入れ難い現実だった。
「……じゃあ、どうして?」
エレの声はわずかに震えていた。
「もしサルダンが政変に関わっていたのなら……あの時、ロイゼルでラファエットが私を連れて行った時点で、あなたは彼の目的を知っていたんじゃないの?」
もしサルダンの目的がエスティリアの支配なら――
異世界の聖女の血を引く自分は、決して未来の統治者として遇される存在ではない。
待っているのは、今よりもっと悲惨な運命だ。
サイラスはすぐには答えなかった。
彼の指がわずかに強くなり、そして低く呟くように口を開いた。
「……あの時の俺には、君を連れて行く権限がなかった。」
それは、言葉にできない無力感だった。
声は冷静でも、その奥には過去の葛藤と苦しみが滲んでいた。
「それでも、あなたは私を助けに来てくれた。」
エレはそっと言った。
サイラスは答えなかった。ただ、じっと彼女の目を見つめた。
その瞳の中に、エレは今まで見たことのない感情を読み取った。
後悔? 悔しさ? それとも……運命への怒りか。
「そして、結果的に――俺たちはここにいる。」
サイラスは小さく息を吐き、苦笑を浮かべた。
「今の情勢では……サルダンはこの件を理由に、帝国へ戦争を仕掛けてくると思うか?」
エレが静かに問いかける。
サイラスの目が少しだけ暗くなる。
「その可能性は高い。」
声は冷ややかだった。
「ラファエットはこの機を逃すはずがない。
この混乱を拡大させて、サルダンに帝国の内政へ介入する“大義名分”を与えるつもりだ。」
エレは沈黙した。胸の奥に、言葉にできない冷たいものが広がる。
これはただの王位継承争いではない。
それぞれの国家と勢力が互いにぶつかり合う――巨大な盤上の戦いだ。
そして彼女も、サイラスも、その一駒でしかない。




