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(1) 疑惑の視線 ― 貴族が舞姫を呼び出す

 部屋の空気には、どこか重苦しい香りが漂っていた。

 長年焚かれている香のせいか、それとも意図的に作り出された雰囲気なのか。


 エレは部屋の中央に立ち、目の前の男を見据えた。


 男はソファに無造作に腰掛け、片手で顎を支えながら、どこか含みのある微笑を浮かべてこちらを眺めている。

 彼女は舞台を降りた直後、この貴賓室へと連れてこられた。


「とある貴族の御曹司が、お前に会いたがっている」と。

 こうしたことは、一度や二度ではない。


 酒場に遊びに来る貴族たちは、気に入った踊り子を名指しで呼び出し、酒を酌み交わしたり、世間話をしたり――あるいは、それ以上のことを求めてくることもある。


 彼女はすでに覚悟を決め、どんな言葉が飛んできても動じぬよう準備を整えていた。

 だが――


「……どこかでお前を見たことがある気がするな」


 その言葉を聞いた瞬間、エレの胸の奥がわずかにざわめいた。


 だが、その動揺を表に出すことはない。眉ひとつ動かさず、まるでありふれた口説き文句でも聞いたかのように、ふっと微笑んだ。


「閣下ほどの方なら、美しい女性をたくさん見てこられたでしょう。私も、その一人に過ぎませんわ」


 拒絶するわけでもなく、かといって会話が深まる余地も与えない――完璧な受け流し。

 だが、目の前の男がそれで引き下がるような相手でないことは、彼女にもわかっていた。


 彼の衣装は華やかで、高級感が漂っていた。

 体にぴったりと合ったロングコートは、彼のすらりとした体格をより引き立たせる。

 襟元には金糸の刺繍が施されており、それがただの貴族の着る服ではないことを物語っていた。

 だが、服装以上に目を引くのは、その容姿だった――。


 暗紅色のショートヘア。毛先にかけて徐々に深みを増すその髪色は、先ほど舞台の下で見かけた若い貴族たちとは明らかに異なっていた。


 エレがふと顔を上げ、彼の視線を捉えた瞬間――気づいた。

 彼はずっとこちらを見つめていたのだ。


 しかし、その目が合った刹那、彼はすぐに視線をそらした。

 まるで、ただの偶然だったかのように。


 ――だが、エレはその一瞬の動きを見逃さなかった。

 伏し目がちに視線を落としつつも、さりげなく彼を観察する。


 そこで、ようやく気づいた。

 彼の左耳――そこには、精巧に作られた氷のように透き通った蒼いピアスが揺れていた。

 冷たい輝きを放つその色に、何か懐かしいものを感じる。


 一瞬、胸の奥がざわめいた。

 まるで――どこかで、見たことがあるかのように。


 しかし――考える暇はなかった。

 視線を落とした瞬間、男の低く響く声が再び空気を震わせる。


「エスティリア」


 呼吸が、一瞬止まった。


 エスティリア。


 それは、ただの国の名ではない。

 彼女自身の、姓でもある。


 脳裏を巡る思考は瞬時に加速する。


 だが、彼女は驚きの色を一切見せなかった。

 微かな動揺すら、表情に浮かべることなく。

 ただ、ゆっくりと瞬きを一つ。


 そして、まるで何気ない会話のように、穏やかな声で問いかけた。


「閣下は、エスティリアにご興味がおありで?」


「最近、政変があったと聞いた。」

 男の声には、一切の感情がない。

 まるで天気の話でもするかのような、無機質な口調。


 だが――その一言は、エレの心を強く締めつけた。


 政変。


 そう、あの政変。


 彼女がこの場に立ち、舞姫として生きることを強いられた理由。


 全てを奪われた、あの日の出来事。

 だが――彼女は、それを表に出すわけにはいかなかった。


 エレはゆっくりと柔らかな微笑を浮かべた。

「まさか、閣下が他国の政局に関心をお持ちとは。」


 男はふっと微笑んだ。

 だが、何も答えず、再び視線を上げて彼女を見つめる。


 今度は――すぐに逸らすことはなかった。

 その瞳には、探るような色が宿っている。


 まるで、こちらの隙を引き出そうとしているかのように。

 部屋の中に、一瞬の静寂が訪れる。


 ゆらゆらと揺れる燭火の光が、彼の蒼いピアスに映り込み、淡い輝きを放つ。

 エレは、そっとスカートの裾を握りしめた。


 ――試されている。

 この探り合いは、まだ終わっていない。


 張り詰めた空気が漂う中、燭火だけが小さく揺れ続ける。

 その時――エレが静かに呼吸を整えようとした瞬間、

 男が立ち上がった。


 不意に訪れた動きに、エレの神経が本能的に張り詰める。

 彼は、ゆっくりと――だが、確実に歩み寄ってくる。


 エレは微動だにせず、その場に立ち続けた。

 後ずさることもせず、ただ静かに目線を落とし、

 彼が次に何をするのかを待ち構えるように――。


 男の指が、すっと持ち上がる。

 動きは軽やかで、迷いがない。


 指先がそっと、彼女の銀白色の髪を一房すくい上げた。

 エレの体が、わずかに強ばる。


 指の腹が髪をなぞるように滑り、まるでその手触りを確かめるかのように――。

 銀糸のような髪は、光を受けて青紫の輝きを帯びる。

 まるで、夜空に流れる星の川のように。


「……この髪色、珍しいな。」

 男が低く呟く。

 その声に威圧感はない。だが、どこか測り知れぬ響きがあった。


 エレは、不快感を覚えた。

 彼女は昔から、こうして気軽に触れられるのを好まない。


 ましてや、今のような値踏みするような仕草はなおさら。

 だが――この男の素性は不明。


 今の自分は、舞姫「エレ」だ。

 ここで強い態度を見せれば、かえって疑念を抱かせるかもしれない。


 エレは、内心の反発を抑え込む。

 優雅な所作を崩さぬまま、すぐに身を引くことはしなかった。


 男は静かに彼女を見つめた。

 その声はどこか気の抜けたようでいて、しかし、わずかに探るような響きを帯びていた。


「聞いたことがあるんだ――かつて、あの国には《蒼月の聖女》がいたと。」


 エレの胸が、一瞬強く揺れる。

 指先が、わずかにスカートの裾を握りしめた。


「エスティリアは聖女を信仰する国だろう?」

 男はそう言いながら、ゆるく首を傾げる。


 その目には、わずかに興味を含んだ光が宿っていた。

「もし、俺の記憶が正しければ――《蒼月の聖女》とは……。」


 母上――莉奈リナ


 その瞬間、エレの思考に鋭い刃が突き立てられた。


 母上は……ご無事なのでしょうか?


 まだ、生きているのですか?


 この男は、なぜ彼女のことを口にした?


 喉が詰まり、言葉が出ない。


 どれだけ平静を装おうとしても、内心の動揺を完全に隠しきることはできなかった。

 気づけば、一歩後ずさっていた。


「……申し訳ありませんが。」

 穏やかな口調は保ちつつも、その声にはわずかに距離を置く冷たさが混じっていた。


「閣下のそのような振る舞い、少々不快に思いますわ。」

 エレは静かに一礼した。

 その目には揺らぎ一つなく、声にも焦りの色は微塵もない。


「もし閣下が、私をここへ呼び出したのが単なる戯れではなく――別の意図があってのことでしたら。」


 ゆっくりと顔を上げる。

「……お聞かせ願えますか?本当の目的を。」


 もはや、相手のペースに乗るつもりはなかった。

 エレは敢えて、真正面から問いを投げかける。


 男の指が、わずかに動きを止める。

 次の瞬間、絡め取るように弄んでいた髪をそっと離し、

 口元に、意味深な笑みを浮かべた。


「……ふっ、冷静だな。」


 コン、コン。


 扉の向こうから、軽く二度、控えめなノック音が響く。


「カイン様、お時間です。」


 エレの心が、一瞬だけ強く跳ねる。

 だが、その動揺を微塵も表に出さず、

 彼女はほんのわずかに身を引き、

 両手を丁寧に重ね、優雅に礼を取る。


「閣下、これ以上ご用がなければ――失礼いたしますわ。」

 穏やかでありながら、どこか距離を感じさせる声音。


 焦ることなく、慌てることもなく。

 まるで、この手のやり取りにはすっかり慣れている舞姫のように。


 だが――。

 ほんの刹那。

 その短い時間が、彼女にはあまりにも長く感じられた。


 エスティリア。

 そして、《蒼月の聖女》――。


 この話題を、単なる探りとして流すことはできない。


「カイン様……」

 彼女は心の中でその名を繰り返し、

 その若き貴族の姿をしっかりと記憶に刻んだ。


 男は引き止めることなく、ただ口元をわずかに歪め、

 淡く微笑む。


 まるで、彼女の振る舞いを気に入ったかのように。

 それとも――彼の本心を読ませまいと、

 あえて含みを持たせているのか。


 エレは静かに身を翻し、部屋を後にした。

 扉がゆっくりと閉まる。


 カチリ――。


 その音を聞いた瞬間。

 彼女はそっと、小さく息を吐いた。

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