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之直という男

 数分ほど待っただろうか。瑠璃羽には、それが数時間のように感じられた。


 コツコツという靴の音が、徐々に近付いてくる。それがまさに目前に迫った時、瑠璃羽はゆっくりと顔を上げた。


「こんにちは。ああ、そんなに怖がらないで。ここのモノみたいにはしないから」


 目の前にいたのは線の細い優男だった。整った顔立ちに合う、形の良い薄い唇は、薄らと笑みを浮かべている。


 男が来たのを確認すると、少女は椅子から下り、その椅子を男の元まで運んだ。それに礼を言うこともなく、振り返ることすらなく、男は黙って腰を下ろした。


「さて、君をどうこうする気はないんだけど、話は聞いておかないと。報告の義務があるんでね。まずは自己紹介でもしよう。僕は之直(ゆきなお)。で、そっちの子はささらちゃん。君は?」


「あ……瑠璃羽……」


「瑠璃羽? 大層な名前だけど、源氏名だな。まぁ、ここじゃあ名前がないなんて珍しくもないよね。この子の名前も僕がつけたからなぁ」


 そういうと、之直はささらの頭をポンポンと叩いた。ささらはされるがままに、ぐらぐらと小さな体を揺らされている。


「あの……ここは何? なんであんなに怖がってるの?」


 瑠璃羽はここに入った時から気になっていた、檻の中の人々の尋常ではない怯え方について聞いた。すると之直はあっけらかんと答えた。


「ここがどこに付属してるか知ってる? 表の店。飲食店。つまり、彼らは肉で、ここは飼育場。理解してもらえた?」


 それは何とも理解し難いものだった。怯えるのも無理はない。おそらく、人々は店に客が来るたびに連れ出され、殺され、料理として提供されている。酷く怯え、正気を失うのも納得というわけだ。


「趣味悪いよねぇ……ふふ。おっと、こんなことを言うと、また店長に怒られる。さて、瑠璃羽さん。君はどういうわけでここに入ったのかな。それを聞かなきゃならないんだ」


「あ、実は……」


 瑠璃羽はまだ驚愕の気持ちから戻ってきてはいなかったが、それはそれとして、妙な冷静さも持ち合わせていた。地下なら何があろうとおかしくはないという納得感だ。


 瑠璃羽は今までのことを之直に話した。小百合に世話になっていること、小百合が倒れたので薬を盗もうとしたこと、それがバレて逃げてきたこと。


 それを聞いている之直は、なんとも楽しそうに、ふんふんと頻繁に相槌を打っていた。


「君は変わり者なのかな。ちょっと助けられたからってそこまでするの? ここじゃ見ないタイプだよ。それとも、その小百合って人に影響受けた?」


 それは、瑠璃羽自身も薄々勘付いていることだった。誰かを助けたいとか、恩返しをするとか、そんなことは考えたこともなかった。瑠璃羽自身も、なぜここまで必死になっているのかわからなかった。


 さて、と、一息つくと、之直は椅子から立ち上がった。


「じゃあ、事情は聞いたから。店長には問題なしって報告するよ。何も盗ってないならそれでヨシってことで」


「あ、あたしを肉にするとかは……そんなことしない……?」


「僕らもね、誰かれ構わず肉にしてるってわけじゃあないのよ。ちゃんと仕入れしてるんだよ? 勝手に数を増やしたら、それこそ怒られる。それに、僕は君が気に入ったよ。外でも中々……いや、なんでもない。とりあえず、そういうこと」


「そう……」


「さ、もう帰っていいよ。ささらちゃんに送らせるから。帰りに捕まらないように、ふふ」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべた之直は、そのまま店の方へ去って行った。残った瑠璃羽は、同じくまだ残っていたささらに手を引かれ、小屋の外に出た。


 正直なところ、瑠璃羽は拍子抜けしていた。理由が理由とはいえ、無断で立ち入って無事で済むとは思っていなかった。今まで失敗続きの瑠璃羽だが、今回だけは運が味方したと言えるだろう。


 『人はいない。今なら出られると思う』


 満月街の中央を走る大通り。それを目前に、ささらは帳面にそう書くと、その場で立ち止まった。この先は1人で、ということだろう。


 瑠璃羽はささらに礼を言うと大通りへ出たが、少し迷うような仕草を見せた後に振り返った。


「あのさ、君と之直さんてどういう関係なの?」


 瑠璃羽がそう聞くと、ささらは少し目を細めて、また帳面に書き出した。


『パートナー』


「なるほど……」


 それを知った後、瑠璃羽は特に何をするでもなく、一言、じゃあね、と言い残し、その場を後にした。


 結局、瑠璃羽は薬の入手には失敗したものの、特に何事もなく無事に満月街を出ることに成功した。


 しかし、瑠璃羽には之直のことが気掛かりだった。それらしい理由で見逃されたが、どうも納得がいっていなかった。


 瑠璃羽が気に入った。それは本心なのだろうか。その疑問は、瑠璃羽の心にしこりのように残ったままだった。

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