第三話 狙われたアイドル(五)
ワタルは一度自宅に帰ったあと、近所にあるなじみのワンショットバーに来ていた。
ひとりでバーボンのロックを飲んでいると、梢を自宅まで送り届けた森下が姿を現した。
「無理にお誘いしてすみません」
森下はワタルの隣に座るとスクリュードライバーを頼んだ。
「まったく、たいした少女です。梢は。私がおろおろしていても、立派に仕事をこなすんですよ。あの子を見ていると、どちらが年上か解らなくなりますわ」
「謙遜しなくてもいいですよ。森下さんも、十分すぎるくらい頑張っています。
それにしても演技力に歌唱力、そして舞台度胸といい、高校生とは思えません。梢ちゃんは将来どんな大物になるんでしょうね」
ワタルは吸いかけのタバコを灰皿においた。紫煙がゆっくりと上る。ふたりは静かにそれを見るでもなく見ていた。
小さな店の客はふたりだけだ。どこへ行っても禁煙ばかりの世の中で、隠れ家的なこの店では喫煙が許される。森下もバッグからタバコを取り出した。
少し照明を落とした店内では、マスターの選曲したピアノ曲が控えめに流れている。
梢への嫌がらせはなくなったのに、森下の表情は険しい。
ワタルは場を和ませようとして、
「森下さん、梢ちゃんのマネージャー歴は長いんですか?」
と、当たり障りのない質問を口にした。
「梢が中学に入ったころからです。劇団から子役の多い芸能事務所に移ってきたのをきっかけに、私がマネージャーになりました」
そして梢の子役時代の失敗や当時の苦労話を、笑顔とともに語った。
だが、こんな他愛のない話が目的で呼び出されたとは思えない。
森下はひとしきり話を終えたあと不意に黙り込み、また軽い話題を続けるという行動を繰り返す。
何か言いたいことがあるのに、どうしても言い出せない。森下の話題は同じ場所を旋回する。
グラスを手にした森下は、何度目かの沈黙を経てようやく口を開いた。
「北島さん。梢のささえは、ご自身だってことにお気づきですか」
「えっ……おれがですか?」
森下がうなずく。ワタルはタバコを灰皿で揉み消した。
「いえ、それについては……」
梢の態度からそんな気持ちが透けて見えることはあった。だがその事実からワタルはあえて目を逸らしていた。
「やはり、そうですよね」
森下はカウンターに両肘をつき、うつむき加減で続ける。
「北島さんは、だれにでも親切です。困っている人を見過ごせないお方ですね」
「とんでもない。そんなにできた人間じゃありません。おれはただお節介なだけです」
そこまでの器量はないと自覚している。
「北島さんこそ謙遜しないでください。困っていたら北島さんが手助けしてくれたという話はよく聞きます。親切で優しいと芸能界では評判ですよ」
森下はタバコに火をつけ、煙を吐き出した。
「でも、梢にはそれが解っていません。自分だけが北島さんに助けられていると思い込んでいます。私はそれが不安なんです」
ワタルは灰皿におかれたタバコから立ち上る紫煙を見つめる。
「あんなに続いた妨害が、なぜ急になくなったんでしょう? 北島さんが親身になってくださったころを境に、何もなかったかのように消えたんですよ」
「梢ちゃんが毅然とした態度を貫いたからではありませんか?
仕事のときは絶対に泣き顔を見せず、ひるむこともなかった。妨害者はそれを見て、自分のやっている行為が無駄な努力だと気づいたのだと思います」
「だといいのですが、残念ながらわたしにはそう見えません。嵐の前の静けさ。何かが起こりそうで不安ばかりが胸の中で広がっていくのです」
「嵐の前の静けさ、ですか」
嫌がらせの犯人について、森下は何か情報をつかんでいるのだろうか。