第二話 甘え上手とお節介(三)
「ほんとだ。えっと……ふむふむ……あっ解けた。お兄さんすごい!」
梢は急に語尾にハートマークがついていそうな明るい口調になった。
「おじさんから、お兄さんにかわったね」
ワタルの言葉に、梢は微笑みで答える。
「だって最初はあたしのこと笑ったでしょ。でも勉強を教えてくれたから、お兄さんなの」
「ふうん、なるほどね」
ワタルは読みかけの本を閉じた。
「ほかの問題も解いてごらんよ。解らないところは教えてあげるから」
ほんの小さなお節介から、ワタルは梢の家庭教師をすることになった。アドバイスをもとに苦労しながら半分ほど終わったときだ。
「梢、やはり電車に乗り換えて正解だったようね。こっちは渋滞にまきこまれて大変だったわ」
不意にかけられた声に顔を上げると、ノーカラーのネイビージャケットを着た女性が、腕にコートをかけて立っていた。白いボトムスがキリッとした中にも、フェミニンな印象を与える。縁なしメガネをかけ、セミロングの髪は軽くウェーブがかかっていた。
ワタルと同世代に見えるが、女性の年齢は一見しただけでは解らない。だがそれには関係なく、最前線で働く切れ者の雰囲気を漂わせている。
「あ、森下さん」
梢は膝に宿題をおいたまま女性を見上げた。
「どうしてスタジオに入っていないの? 先にレコーディングするようにって言ったでしょ。そのために電車を使わせたのよ」
「だって森下さんもまだだし、宿題も気になったから……」
「今日はオーバー・ザ・レインボウの北島さんがいらっしゃるのに。あなた、大ファンって言っておいて、お待たせしたら申し訳ないわよ」
「でもひとりじゃ照れくさくて……」
梢は手元のノートで顔を隠す。
「ファンだってことは日下部さんが伝えているの。今さら照れてどう……」
と説教しながら森下は、梢の隣に座っているワタルに視線を移した。途端に目を見開いた。
「あの……失礼ですが、北島さんですか?」
やっと気づいてくれる人が現れたことにホッとする反面、ワタルは、梢自身に気づいてもらえなかったことを残念に感じた。
「はい。オーバー・ザ・レインボウの北島ワタルです」
ワタルは立ち上がり、名刺を交換して自己紹介した。予想通り、森下は梢のマネージャーだった。
「ええっ。ききき、北島さんって……あ、あのワタルさんですか? うそっ。ああ、どうしよう。失礼しましたっ。ごめんなさい、おじさんなんて言って。でもどうして解んなかったんだろ。あたし大ファンなのに……」
梢は弾かれた磁石のようにソファーから立ち上がり、顔を真っ赤にして何度も頭を下げる。相変わらず顔はノートで隠したままだ。
困るしぐさや慌て方を見て、ワタルはようやく気づいた。
梢はどことなく義妹の詩織と似ている。
出会った瞬間ワタルを拒否したのに、こちらからそれとなく歩み寄ると、急に打ち解ける。梢の行動は、異母兄妹の詩織との出会いそのままだ。
「こちらこそ、名乗りもしないでごめんね。いつ気づいてくれるか、ずっと待ってたんだよ」
ワタルが優しく微笑むと、梢はさらに顔を真っ赤にして深く頭を下げた。
「北島さん、梢が本当に失礼しました。早速レコーディングの続きをしましょう。お忙しい中、来てくださったのだから、時間を無駄にしては申し訳ないわ」
森下に促され、ワタルと梢はスタジオに入った。待機していたスタッフが梢の登場を、待ってましたとばかりに喜んで迎える。
スタジオは明るく華やかな空気に包まれた。