第一話 素顔を見せて(二)
「デカフェのインスタントコーヒーもたまにはいいだろ」
沙樹がうなずくとワタルは少し笑みをうかべ、タバコに火をつけた。
コーヒーとタバコの香りが部屋に広がる。これがワタルの匂いだ。会えないあいだ、沙樹はコーヒーの量がふえた。無意識のうちにワタルの影を追っていたのかもしれない。
「落ち着いた?」
「今のところは」
「今のところ、とは穏やかじゃないな」
ワタルはマグカップを手に苦笑する。コーヒーを飲むしぐさもタバコを吹かすしぐさも、全然変わっていない。
心の中も同じだといいのに、と沙樹は泣きたいくらいに願う。
不意に沙樹のスマートフォンが振動した。見ると「『虹の彼方に』の放送時刻」と表示されている。
「ラジオを聴きたいんだけど、スピーカーある?」
ワタルはベッドの枕もとを指さした。小さな球型のスピーカーが両端におかれている。沙樹はスマートフォンとペアリングし、アプリでラジオをつけた。ほどなくしてオープニングの音楽が流れ、番組が始まる。聞き慣れたトークは哲哉と弘樹のものだ。
「さすがだね。自分の関係する番組は聴き逃さないんだ」
「仕事に情熱を傾けてるって言ったでしょ」
「ワーカホリックだったとは知らなかったな」
「長いつきあいなのに? さっきも話したでしょ。ここに来たのも新番組の……」
と言いかけて、沙樹は途中でやめた。
「ごめんなさい、ワタルさん。もうよすね。今さら嘘や口実で固めたって意味がないもの」
「……ああ、そうだな」
憂いに満ちたワタルの目が沙樹を捕らえた。灰皿におかれたタバコから、ゆっくりと紫煙が上がる。
「それにしてもここがよく解ったな。こっちの母のことは話してなかったのに」
「得能くんが偶然思い出してくれたの」
沙樹はここに来るまでのことを、ワタルに説明した。
「タイトロープの旅行か。無茶というか無鉄砲というか。おれがここにいないかもしれないって考えなかったのか」
右手のひらを額に当て、ワタルがつぶやいた。
「じっとしていられなかった。それだけなの」
会える可能性は低いだろうと思っていた。沙樹は灰皿の吸い殻を見ながら、ここ数日のことを思い返した。
「おかげで得能くんには、つきあってることが知られちゃった」
「てことは、メンバー全員にもバレたか」
「得能くんだけよ」
「哲哉が黙っているとは思えないね。光の速さでみんなに伝わっているさ」
「迷惑だった……よね」
「いや、そんなことは……でも……」
ワタルは言葉を濁す。
別れる相手との関係を、今さら伝える意味はない。それどころか却って話がややこしくなる。
浅倉梢の交際宣言について、哲哉は沙樹以上に怒りをあらわにしていた。
「ま、いいか。それよりも、ここまで来てくれたのに何も話さないで帰すわけにはいかないな」
マグカップをテーブルにおくと、ワタルは瞬きもしないで沙樹を見た。
スピーカーからは控えめなボリュームで哲哉と弘樹の会話が流れる。楽しそうなトークだ。バンドメンバーみんなが大変なときなのに、そんな苦労は微塵も感じさせない。
木枯らしが木々をゆさぶる音が、窓越しに聞こえる。
「本当はすべてを話すつもりだった。でも事情が変わって、それができなくなったんだ」
些細な会話をしていたときとは打って変わり、苦悩と後悔の色に帯びた声が沙樹の耳に届いた。
ライブハウスにいたときから被っていたリーダーの仮面が外れ、ワタルの素顔が見える。
沙樹はやっと理解した。
自分を冷静に保つには、あの場面でバンドリーダーを演じるしかなかったことを。ワタルも沙樹同様、いや、それ以上に苦しみ抜いていたことを。
「ワタルさん……いいのよ、無理して話さなくても」
自分の都合でワタルを追い込みたくはない。会えただけで、もういい。
真実を知るのは、今でなくても——。
「いや、聞いてくれ。ひとりで抱えるには重すぎる。もうこれ以上、自分の胸に秘めておきたくはない」
崩れかけたワタルを沙樹が支えた。
「おれは、沙樹にすべてを知ってもらいたい」
以上で第三章第一話「素顔を見せて」は終わりです。
次回より第三章第一話「素顔を見せて」に入ります。
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お話はまだ続きますので、ぜひお読みくださいね。




