第六話 心乱されて(九)
何をするわけでもなく日がな一日過ごし、自分の一部だったはずの音楽すら聴こうとしない。もちろん曲を作っているわけでもなく、ギターにも一切触れない。
ワタルはプロデビューするまで毎年のように夏休みに帰っていたが、抜け殻のような姿を見たことはなかった。
精神的にかなり疲れているのは、傍目でもよく解る。
そんなとき沙樹がやってきた。彼女の雰囲気に業界人の匂いを感じたハヤトは、ワタルを捜しにきたレポーターだと思い込み、絶対に近づけてはならないと考えた。ステージが終わってすぐに話しかけたのは、沙樹をワタルに近づけないように監視するためだった。
だが話しかけてすぐ、沙樹が芸能レポーターというのは誤解だと解った。早とちりを反省したハヤトは、罪滅ぼしのつもりで沙樹をサポートした。
だがそれも束の間のことだ。
沙樹の悲しげで切ない瞳に、観光を口実にした傷心旅行だと悟った。
人の心はままならない。何かの拍子に見せる切ない瞳に惹かれ、自分も同じ目で沙樹を見ていた。
それがわかったのは昨夜——自分のバイトするバーに行ったときだ。恋に落ちるのに、時間は必要ない。今にして思えば、罪滅ぼしというのは口実で、沙樹と一緒に過ごしたいという気持ちが気づかないうちに生まれていたのかもしれない。
そんなハヤトの気持ちを知ってか知らずか、沙樹は冷たい雨の中を彷徨うという無謀なことをした。
思いつめた沙樹を放っておけなかった。
だがぎりぎりのところで沙樹の本心に触れた。傷心旅行の沙樹は、ハヤトを通して去っていった恋人の影を見ていた。だからあのとき、胸を貸す以上のことはできなかった。
すべて錯覚だと解っていても、気持ちは抑えられない。別れた恋人の代わりでもいい。いつかは自分を見てくれるだろう。それまで待てばいい。
納得していたはずなのに気持ちが抑えられず、ライブの直前にキスしてしまった。沙樹以上にハヤトが驚いた。
「ふたりとも、どうしてぼくに打ち明けてくれないんだよ」
ワタルのため、あるいは沙樹のためにしたつもりが、すべて裏目に出た。
沙樹がワタルの恋人だということ。そして捜しにきたことを話してくれたら、すぐにでも会わせられた。
ワタルも「浅倉梢のことはただのうわさだ。沙樹という恋人がいる」と詳しく語ってくれていたなら……。
ひとりだけ蚊帳の外におかれていたせいで、噛み合うはずの歯車が外れてしまった。
「……まるでピエロだ」
ハヤトは沙樹のことが気掛かりだった。一見自分の意思で選ばせたようで、実質無理やり連れて行かれたようなものだ。
あの場でどちらかを選ぶなど、無理な要求だ。
「沙樹さん、大丈夫かな。いくら憔悴してるとはいえ兄さんはあれでタヌキだから、何を考えてるのか見当もつかないや。沙樹さんのことを恋人だなんて言ったけど本当かな。浅倉梢の交際宣言もあるっていうのに」
沙樹を引っ張るためにその場しのぎの嘘をついた可能性もある。報道の真偽をワタルは一言も口にしていないのだ。
ふたりの行先は解らない。さりとていつまでも駐車場に留まっていても仕方がない。
「とにかく一度帰ろう。それから作戦を立てても遅くない……といいんだけど」
ハヤトがイグニッションキーを回すと、車のエンジンがかかると同時にカーステレオの電源が入り、オーバー・ザ・レインボウの曲が流れ始めた。まの悪いことに、ワタルがリードボーカルを務めた曲だ。
「クソッ。なんてタイミングだよっ! 余計なところで出てきやがって! 兄さんのばかやろーっ!」
オーバー・ザ・レインボウのアルバムを取り出し、海外のハードロックバンドに入れ替えて、ハヤトは車をスタートさせた。
以上で第二章第六話「心乱されて」は終わりです。
次回より第三章第一話「素顔を見せて」に入ります。
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お話はまだ続きますので、ぜひお読みくださいね。