第六話 心乱されて(六)
冷静になって旅の目的を考えれば、ワタルについて行き、何があったかを教えてもらうべきだ。
だが心が拒否する。アイドル歌手の影が沙樹に立ちはだかる。
浅倉梢はワタルの腕に体をもたれかけ、勝ち誇った笑みを浮かべて沙樹を見つめている。とても勝てる相手ではない。
「沙樹さん、迷わないで。人を泣かせるようなやつに、ついてく理由なんてないよ。浅倉さんとつきあってるくせに、沙樹さんのことを『恋人だ』なんて。嘘つきか浮気者の最低人間じゃないか」
ハヤトの言う通りだ。それに今さら真実を知ってなんになる。世の中には知らなくてもいい事実はごまんとある。
沙樹はハヤトを選び、後ずさりした。そのとき。
「沙樹。恋人という言葉に偽りはないよ」
ワタルのささやき声が耳に届いた。
「今……なんて?」
ふりむくとそこに、変わらないワタルがいた。
ワタルのすぐ隣にまとわりついていた浅倉梢の影が揺れ、徐々に彩りを失う。勝ち誇った笑みは消え、今にも泣き出しそうな大きな目が沙樹に何かを伝えようとし、やがて消えた。ワタルは沙樹に温かな眼差しを向けている。
そこにいるのは、沙樹のよく知っているワタルその人だ。
「ごめんなさい、ハヤトくん」
沙樹はうしろ髪を引かれながら、ワタルの車に乗った。
ハヤトには申し訳ないことをした。どんな理由があったにせよ、結果的に都合よく利用したことにかわりはない。
ふりかえると、ハヤトがこちらに向かって何か叫んでいるのが見えた。沙樹は窓を開けた。車のエンジン音にも負けないくらいの大声だ。
「兄さんのばかやろー! さっさと東京帰っちまぇっっ!」
——兄さん。
ふたりが兄弟だという沙樹の勘はあたっていた。だがそれが何になる?
胸を支配する罪悪感は消えない。今になって自分の決断に迷いが出る。
「あたしハヤトくんに悪いことをしてしまった。ここにきた本当の理由をまだ話してないのに……」
「だからハヤトのことなら気にしなくていいさ。あれで意外と打たれ強いんだ。それよりも沙樹の目的は、別にあるんだろ」
「そうだけど……それよりも一緒に車に乗っているところを見られたら、また騒ぎのもとになる……」
熱愛報道の最中だけに、質の悪い一般人が写真を撮ってSNSに流す可能性もある。一般人とつきあっていたという報道も出ているのだから、その相手を特定しようという動きがあってもおかしくない。
「そうだな。ここは沙樹の忠告に従って人目につかないところに行くよ。これ以上、話題を提供する義理なんてないからね」
赤信号で車が止まると、ワタルは胸ポケットから黒縁のメガネを取り出してかけた。有名人だと気づかれたくないときにいつも使うものだ。ステージと違い華やかさのないラフなファッションに加え、夜なので気づかれる可能性が低いことを祈るのみだ。
そんな沙樹の不安をよそに、ワタルは青信号を合図に車を発進させた。
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