第六話 心乱されて(二)
テノールの声が遠くから響いている。
静かなバラードが満たす控え室で、思いがけず沙樹はワタルとふたりきりになった。
言いたいことや訊きたいことが数え切れないほどある。それなのにワタルを目の前にしただけで、全部飛んで頭の中が真っ白になった。
ワタルは顔を背け、内ポケットからタバコを取り出した。だが指に挟んだだけでいつまでも火をつけないで、手にしたライターに視線を落としている。
互いに口を開くこともなく、息苦しいだけの時間が過ぎる。
「まさか……こんな場所で会うなんて思わなかったよ」
沈黙を破ったのはワタルだ。沙樹に座るよう促し、自分も椅子に腰を下ろした。
「驚いたのはあたしの方よ。取材先で失踪中のワタルさんに会うんだもの」
沙樹は平然を装い、いつもと同じ口調で話す。ワタルを捜しに来たことは知られたくない。
「取材? 何の? 観光旅行じゃないのか」
「企業秘密。あたしが仕事に情熱を傾けてることくらい知ってるでしょ」
だから恋人に去られても、どうってことないんだから。
平気なふりをしていても、この言葉はどうしても言えなかった。
「地方のライブハウスに来て、取材もないだろ」
ワタルは肩をすくめたあとで、ようやくタバコに火をつけた。そんな些細なしぐさが懐かしく、沙樹の胸が騒めく。
「前からやりたいと思っている企画があってね。まだリサーチの段階だから出張扱いにならないのよ。仕方がないから休みを取って、観光旅行を兼ねて下調べにきたの」
「なるほど。地方発アマチュアバンドの紹介でも考えてる?」
「うん……そんなところ、かな」
とつぶやくように返事をし、沙樹は視線を落とした。ワタルと世間話をしている暇はない。ハヤトたちが引き上げてくる前に立ち去るつもりだったのに、計画が狂ってしまった。
「そこで目をつけたのが、ザ・プラクティスか。どうやって見つけたのか知らないけど、いいところをついてるな。彼らを番組で使うつもりなら、インタビューを録っておくといいよ。面白い話が聞けるかもしれない」
「あたしが?」
「沙樹ならできるよ。音楽のこともしっかりと勉強しているだろう。自信がないなら手伝ってもいいけ……」
「ワタルさんの助けはいらない。これは、あたしの企画だから」
沙樹はワタルの言葉を途中で遮る。別れる相手に大切な仕事のことで頼りたくない。
「確かに沙樹のいう通りだな。ところでどこに泊まってるんだ?」
「黙っていなくなるような人には教えてあげない。それに今からチェックアウトして、夜行バスに乗るつもりだったし……」
違う。こんなことを話したいわけではない。それなのに口をついて出る言葉は、いつもと同じ他愛のないものばかりだ。
「それより、こんな目立つところにいてもいいの?」
「控え室は目立つ場所じゃないよ」
「そうじゃなくて……写真週刊誌とか、芸能レポーターとか。あ、あの人たちから逃げるために……隠れたんでしょ」




