第六話 心乱されて(一)
第六話「心乱されて」
ハヤトとは顔を合わせられないと感じた沙樹は、ライブの終わる前に去ることを決意しました。
ところがそのタイミングで予想外の人物と出会ってしまい、帰ることができなくなります。
沙樹が一番会いたかった人物はワタルで、一番会いたくない人物もワタルだった。
そしてこの瞬間、ワタル本人が沙樹の目の前に立っている。
東京で浅倉梢と一緒にいるはずなのに。週刊誌の記事は誤報だったのか? では、浅倉梢の書いたあのブログは?
次々と湧いてくる疑問が沙樹の中でぐるぐると駆け回る。だが今はそんなことはどうでもいい。
溢れ出す熱い想いで胸が締めつけられる。
やっと会えた。ここまで来た甲斐があった。それが一番素直な気持ちだ。
だが沙樹は、心のままにワタルの胸に飛び込めない。何の説明もないまま姿を消し、挙句の果てに浅倉梢と交際宣言だ。
心がわりと別れについて説明するより、黙って去ることが沙樹への最後の思いやりだと勝手に思い込んでいる。卑怯だ。
すがりついて「行かないで」と醜態を晒すような真似はしたくない。にっこり微笑んで、うしろ姿を見送る。ワタルがそういう態度を取り続けるなら、何事もなかったようにさっぱりと別れてやる。
ウソでもいい。それくらいの余裕を見せることが、沙樹に残された最後のプライドだ。
いや、違う。それは欺瞞だ。どんなに不幸になったとしてもワタルのことが忘れられない。
そんな物わかりのいい女性を演じて何になる? なぜ静かに身を引かないといけないの?
それこそ浅倉梢が一番求めている終わり方だ。
いくらアイドルでも、どんなに有名なトップスターでも、そんなことは関係ない。あの娘さえ現れなければ、こんな辛い旅に出る必要もなかった。
三角関係でも、火花飛び散る女の戦いでもいい。週刊誌にあることないことを書かれたってかまわない。
ワタルのことを愛している。だれにも渡したくはない。ワタルへの想いは誰にも負けない。
でもそれは本当の気持ちなの? 沙樹の気持ちは、もうすでに別の人に向かっている。ワタルに似ているけれど、ワタルではない人物。
誰にでも親切だと思っていた。だがそうではなかった。
ハヤトは沙樹のことを真剣に想っている。でなければライブが始まる前、突然キスをするはずわけがない。
そして沙樹も、戸惑い以上の何かを感じた……。
沙樹の頭の中で、いろいろな感情が一度に溢れてきた。どのようにふるまうのが自分の気持ちに一番忠実なのか、自分でも解らない。
ちぐはぐな心の声が勝手に自己主張を始め、金縛りにあったように動けなくなった。
演奏中の曲がもうじき終わる。ラストナンバーだから、ザ・プラクティスのみんなは、まもなくここに戻ってくるだろう。
テノールの声が響いてくる。静かなバラードが満たす控え室で、思いがけず沙樹はワタルとふたりきりになった。