第五話 かすかな予感(十一)
手帳を開き「急用ができたので今から帰ります」と、ハヤトあてのメッセージを書いてページを破いた。
確実に読んでもらうために、ハヤトのロッカーにマグネットでとめる。
哲哉への連絡は夜行バスに乗ってからでいいだろう。ワタルとハヤトが兄弟かを確認するのは、そのときでも遅くない。
「帰ったら引越し先を探すかな」
ワタルとの思い出がたくさん詰まった部屋に、いつまでも住んでいたくない。
短かったがいろいろな意味で実りのあった旅行を思い返す。
哲哉の優しさと思いやりは、男女を越えた友情が存在することを教えてくれた。仕事でワタルと顔を合わせるのはつらいが、哲哉がいればうまく乗り越えられる。
恋愛は消えても友情は続く。
ワタルのことも愛しさえしなければ、いつまでも友達でいられたかもしれない。
店内の演奏が響いてくる。聴こえてくるのは哲哉の作ったバラードで、ファンクラブの投票で一位になったものだ。
感情を抑えた歌声が淡々と、そして切なく響く。短い日々の中で共に過ごした時間が瞼の裏に浮かぶ。
偶然の出会い。ボーカルを耳にしたときに受けた驚き。途方にくれた沙樹を助け、旅館に案内してくれた。偶然ふれたときのときめき。いろいろなところを歩き、ライブハウス巡りもした。
そして昨夜と、ライブ直前の出来事……。
ワタルのイリュージョンを見ていたのか、ハヤト自身に惹かれ始めたのか。今の沙樹には解らない。
あいまいな気持ちのままで会っては、まちがいなくハヤトを傷つけてしまう。
曲が終わった。次はラストナンバーだ。一刻も早くこの場を去らなければ、ハヤトと顔をあわせてしまう。沙樹は控え室を出ようとして、バッグを手にした。
ちょうどそのときだ。誰かが扉をノックした。まさかライブの最中に人が来るとは思わなかった沙樹は、急いで荷物を手にした。
「は、はい」
沙樹は反射的に入り口に背を向けた。ドアが開いて、だれかが入ってくる気配がする。バンドメンバーの友だち、いや店のスタッフだろうか?
訪問者がだれであれ、部外者の自分がここにいる理由を説明するだけの気力は残っていない。
「すみません。ちょうど、失礼するところだったんです」
相手の顔を見ることなくそばを通り過ぎ、沙樹はドアノブに手をかけた。
「あれ、もしかして……沙樹、なのか?」
「えっ?」
唐突に名前を呼ばれ、沙樹の動きが止まった。
ハヤト以外にこの街で自分を知っている人はいない。
それなのに訪問者は、沙樹を知っている。
いつも耳にする懐かしい声で、その人は「沙樹」と呼んだ。
体温が急上昇して動揺で頬が熱くなり、胸の鼓動が激しいビートを打つ。
不安と恐れが心に広がった。だがそれ以上の期待を胸に抱きながら、沙樹はゆっくりとふりかえる。
白と黒のスニーカー、カーキ色のチノパン、チェックのシャツの上に羽織っているのは黒いジャケット。シンプルで着飾らないが、見慣れたセンスのいいコーディネート——。
期待と不安でいっぱいになりつつ、訪問者の顔を見上げる。
すぐそばに立っていたのは、沙樹がずっと捜していた人物だ。
「まさか……ワ、ワタルさん……なの?」
一瞬、ハヤトを見まちがえたのかと思った。だが演奏は終わっていない。ステージからハヤトの歌声が響いてくる。
そこにいるのはほかのだれでもない、本物の北島ワタルだった。
以上で第二章第五話「かすかな予感」は終わりです。
次回より第二章第六話「心乱されて」に入ります。
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お話はまだ続きますので、ぜひお読みくださいね。




