第五話 かすかな予感(十)
初めて会ったときに懐かしい感覚に包まれたのも、ずっと昔から知っていたような気がしたのも、ハヤトのうしろにワタルを見ていただけだ。
警戒心もなくつきあえたことや、わけもなくときめいてしまったことは、ワタルに対する思いだった。
それに気づいた今、これまでと同じように接することはできない。
罪悪感が胸に広がる。
ハヤトに会えば、ワタルに対する想いをぶつけてしまうかもしれない。沙樹は感情をコントロールする自信がなかった。
——これがぼくの気持ちだから。沙樹さんがだれを想っていてもね。
ハヤトは迷いのない眼差しを向けてくれた。沙樹も同じ気持ちになれるかもしれないと思っていた。
だがすべては、ワタルという幻想を追いかけていたにすぎない。
迷う心とは裏腹に、沙樹はライブハウスに向かった。扉を開けたとたん、ハヤトのボーカルが耳に届く。
透明感のあるテノールだ。
言葉ひとつひとつを、ガラス細工を扱うように丁寧に歌っている。澄んだ歌声と繊細な表現方法が聴く人を優しく包み、安らぎを覚えさせるのに。
一体となった観客とバンド、その中に沙樹のいる場所はない。
確認こそできなかったが、あのふたりが兄弟なのはステージを見れば解る。ハヤトの音楽的才能は、ワタルと同じDNAのなせる技だろう。
ハヤトがワタルを忘れさせてくれると思っていた。すでにワタルのことを忘れかけていると思っていた。
それどころかワタルに一番近い人間を通して、無意識のうちに影を追っていたとは。
人の気持ちとは、こんなにも残酷なことができるのだろうか。
沙樹は自分の行動が招いた結果に、唇を噛み締めるしかできなかった。
☆ ☆ ☆
沙樹は控え室に入り、テーブルの上に買ったばかりの週刊誌を広げた。
グラビアページに掲載された浅倉梢の写真は、主演映画公開の舞台あいさつで撮影されたものだ。梢の歌う主題歌はワタルが提供している。
『初めはレコーディングの合間に勉強を教えてくれてたんです。そのうち仕事以外でも会うようになりました。お食事? ええ、何度かご一緒しました。優しくて思いやりのあるお兄さんです。
友達以上、恋人未満って言いますよね。今はまだそんな感じかな』
ブログの交際宣言は昨日のことだから、週刊誌の記事はタイトルと違い、思わせぶりな書き方で断定は避けていた。
感情抜きで記事は読めないが、浅倉梢の言うことはよくわかる。沙樹とも同じような過程で距離が縮まっていった。
浅倉梢は、ワタルに恋している。こんな大スターが相手ではライバルにもなれない。
沙樹は椅子にかけていたコートを取り、袖を通した。
今から宿に帰りチェックアウトすれば夜行バスにぎりぎり間に合う。東に向かうバスならなんでもいい。これ以上ここに長居したくない。




