第五話 かすかな予感(七)
「あ、ご、ごめんなさいっ。つい……」
沙樹は何も言えず、ハヤトを見つめた。戸惑い、気まずさ、そして……。
「でも、これがぼくの気持ちだから。沙樹さんがだれを想っていてもね」
あたしがだれを想っているって? ……ワタシヲ ステタ ヒトノ コト?
「ライブのあとで返事を聞かせて」
ハヤトはギターを手にして出ていき、沙樹はひとり控え室に残された。
手の甲で自分の唇に触れる。長い間キスしていたように錯覚していたが、実際はほんの数秒程度だ。
一番恐れていたこと、絶対に起きてはならないことが現実となった。
行き場をなくした気持ちが、安らぎの場所を見つけてしまいそうだ。
浅倉梢が交際宣言したとはいえ、ワタルへの想いが消えたわけではない。しかしハヤトと過ごしたここ数日間は、沙樹に安らぎと落ち着きを与えてくれた。
ワタルが消えた瞬間からなくしてしまった心の平穏を、ハヤトが思い出させてくれた。
唇に残るキスの感触は、ハヤトのものだ。
ワタルの影とハヤトの姿が重なる。
沙樹の大切な人はどちらなのか。ワタルからハヤトに変わりつつあるのだろうか。
いくら考えても、今はまだ結論が出ない。答えを見つけられないまま、沙樹はハヤトたちのライブを見るために、客席に移動した。
☆ ☆ ☆
沙樹が座ったのは前回と同じ最前列の一番端だ。店内はほぼ満席でステージを注目している客も見られる。
ライブ前に渡されたセットリストによると、今日はオーバー・ザ・レインボウの曲だけを演奏するらしい。
スタートは最新アルバムの一曲目に収録されているポップな曲で、先月終わったばかりのツアーでもオープニングに使われていた。
沙樹は、オーバー・ザ・レインボウを初めて見たときのことを思い出した。アマチュアだけが持つことのできる情熱と新鮮さ、そして何よりも強いのは、プロになんて負けるものかという尖った気持ちだ。
昔のワタルたちに優るとも劣らない力強さだ。
だが沙樹が一番興味を持ったのは、そんなありきたりのものではない。単なるコピーバンドを想像していたが、それをいとも簡単に裏切られた。
ザ・プラクティスは曲を楽譜通りに演奏するのではなく、自分たちの手でいろいろなアレンジに挑戦している。中には、オリジナルと異なったアプローチをしている曲もあった。
とくに際立つのはボーカルだ。
哲哉の歌はいつも情熱的で、感情をストレートに表現する。哲哉のもつエネルギーが曲という媒体を通して、聴く者の心を激しく揺さぶる。リズミカルな曲では体を動かし、情熱的な曲には圧倒され、悲しい曲では胸が苦しくなる。
観客が泣くのも笑うのも、哲哉の歌ひとつで決まる。
対するハヤトは、哲哉とは対極的な歌い方だ。
情熱のあからさまな表現を避け、静かに歌い続ける。感情に溺れることも気持ちをストレートにぶつけることもない。
そのスタイルは偶然の産物ではなく、試行錯誤を重ねた結果選んだ表現方法に違いない。その証拠に、誠実な表現が逆に詞をうきぼりにし、耳にする人ひとりひとりに意味を解釈する余裕を与えている。