第五話 かすかな予感(六)
この街のライブハウスで、ワタルのサインをおいているところはなかった。ある意味、予想通りの結果だ。
哲哉と約束した通り、これ以上の深追いはしない。
これでよかったのだ、と沙樹は思う。
ワタルの気持ちが浅倉梢に向いている以上、実家を見つけたところで、どうしようもない。行けば会えるとしても、会いたくなかった。
ハヤトたちは控え室で声がかかるのを待っている。みんな口を開くことなく、それぞれのやり方で気持ちを集中させている。
ハヤトにいたっては、今まで見せたことのない鋭い視線で、大胆にも口元に小さな笑みを浮かべていた。
「ザ・プラクティスさん、出演の時間ですよ」
控え室の扉が開き、バイトのウェイトレスが知らせに来た。
「じゃあ今日も全力で行くぜっ」
メンバー四人で円陣を組みマサルが檄を飛ばすと、おおっ! と力強い声が上がる。それぞれが自分の楽器を持ち、部屋を出る。
ハヤトもギターを手にし、三人に続いて部屋を出ようとした。
「ハヤトくん。待って」
「え、なに?」
「右耳のピアスがゆるんでる。きちんと止めておかないと、ライブの途中で外れちゃうよ」
ハヤトは鏡の前に立ち、髪をかき上げて確認した。
「ほんとだ。ありがと。でもよくこんな細かいことに気がついたね」
ハヤトは手で確認し、止め直しながら問いかけた。
オーバー・ザ・レインボウがアマチュアのころ、沙樹はいつも最終的な身だしなみをチェックしていた。もう何年もしていないが、そのときの勘はまだ残っている。
「緊張してる?」
「少しね。でもこれくらいの方が、いい演奏ができるよ」
「がんばってね。ちゃんと見て……」
沙樹は最後まで言えなかった。視界が遮られ、口元に柔らかいものが触れた。沙樹の唇にハヤトのそれが重なっていた。
だめだ、こんなことは。
離れなくてはいけない。
なのに、抵抗、でき、な、い……。
沙樹はハヤトの両手に頬を包まれた。温もりが心に渦巻く黒い雲をかき消す。
どうして? なぜ抵抗しないのか? 沙樹の中でふたりの自分がお互いを責め合っている。
流れに身を任せろとささやく自分。
理性を取りもどせと叱責する自分――。
ふっと力が緩められたかと思うと、ハヤトの唇がゆっくりと名残惜しそうに離れた。




