第五話 かすかな予感(五)
カウンター近くの壁には、多くのサイン色紙が飾られている。
沙樹は楽譜をみんなのスタンドに配ったあとで、さりげなくカウンターに近寄った。
緊張のあまり両手を握りしめ、ひとつひとつ丁寧に確認する。沙樹の知っているミュージシャンのサインもいくつか貼られている。
地元のインディーズバンドばかりではなく、プロも演奏するときがあるのだろう。
心臓の鼓動が耳につく。これは違う。隣のサインもワタルが書いたものではない。その下に貼られている色紙を見た瞬間「あっ」と沙樹は心の中で叫んだ。文字の並びが「WATARU」と読める。
見つけた!
沙樹はドキドキしながら、そのサインをじっくり見た。
だがそこに書かれた日付は先月のもので、同じワタルでも別人のようだ。ソロのサインではなく、バンド全員のもので、あとは知らない名前が並んでいる。
ひとりで訪れたときに書いたサインに、他のメンバーの名前が並ぶわけがない。
沙樹は力が抜けるのを感じたが、まだチェックしていないものが五〜六列残っている。同じ失敗を繰り返さないように、余計な期待を込めることなくすべてのサイン色紙を見終えた。
ここにも北島ワタルのサインは貼られてなかった。
緊張が失望に変わる。
この街がワタルに縁のある場所だという予感は、見事に外れた。期待した手がかりは見つからない。そしてワタルは遠い人になった。
ふたりをつなぐ赤い糸は、完全に切れている。
やるせない気持ちに気づかれるのがいやで、サイン色紙の前で力なく立っていると、沙樹は背後から突然声をかけられた。
「たくさん色紙が飾られているでしょう」
ふりむくと、ヒデが腰に手を当てて立っていた。
「最も大半はアマチュアのものですけどね。レギュラーで演奏してた先輩たちや、地元限定で有名なバンド、そして夢破れて帰って来て、またここで演奏している人もいます。だからどれもこれも聞いたことのない名前ばかりでしょ」
「でも、中にはプロのサインもありますね」
「ええ、いますよ」
「……たとえば?」
もしかしたらワタルのサインはデザインが変わっていて、沙樹が見落としたかもしれない。最後の望みをかけて沙樹はそれとなく問いかけた。
ヒデは色紙を見渡しながら口を開く。
「セイレーンでベースを弾いてる陣内さんって、ご存知ですか?」
半年ほど前にキャンペーンでFM局にきたバンドだ。標準語で喋っているのにときどきどこかの訛りが混じっていたので、よく覚えている。
「クロスロードやオーバー・ザ・レインボウは……流石にないですよね。ファンだから直筆があれば見たかったんですけど」
「あんな大物がうちに来るわけないですよ。縁もゆかりもないのに」
ヒデはアメリカ人がよくやるように、肩をすくめて手のひらを上に向けた。
沙樹はもう少しでワタルの名前を出し、再度確認しようとした。
だが哲哉に「目立った行動は慎めよ」と忠告されたことを思い出し、踏みとどまる。
第一ワタルの実母がいるかもしれないという情報は、ごく一部の人しか知らない内容だ。
「そうだ、うちのサインもあるんですよ」
とヒデは、まだ新しい色紙を指さした。
色紙の中央には大きな文字で「目指せプロ!」と力強く書かれている。
なれない文字でたどたどしく書かれたそれは、寄せ書きという言葉が似合いそうなサイン色紙だった。
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