第四話 冷たい雨(六)
「放してよ……」
優しさがつらい。
「だめだ。放したら沙樹さん、またいなくなるじゃないか」
ハヤトはつかんだ手を握りしめる。
「心配しなくてもちゃんと帰るよ。だからもう構わないで」
「沙樹さんっ」
「優しくなんてしないでっ」
力ずくで腕をふりほどこうとするが、ハヤトは決して力を緩めない。
「意地張るなんてやめなよ。何があったのか知らないけど、みっともないだろっ」
「意地なんて張ってない。初めからひとりだったのに、それに気づけてなかっただけ……。本当に莫迦だよね、あたしって。笑っちゃうくらいに」
沙樹が抵抗をやめると、ハヤトは軽く息を吐き、腕を放した。
「何か事情があるんだよね。もう止めない。でも代わりにぼくの頼みをふたつだけ聞いてくれない?」
「頼み……?」
「ひとつ目は車に乗ること。バスタオルもあるし、ホットコーヒーも入れてきたよ。ふたつ目はそれで体を拭いて温めること」
ハヤトはポケットから取り出したハンドタオルで沙樹の濡れた頬を拭いた。
自分が小さな子供になったような気がして、沙樹はくすぐったいものを感じた。ハヤトは妹想いの兄のように包んでくれる。
「ハヤトくんって、お節介なんだから」
「そうだよ。でなきゃこんなことでき……」
視線が不意に絡み、ハヤトが言葉を止めた。
沙樹自身がずっと抑え、考えないようにしていた感情が、堰を切って溢れる。頼ってはいけないと理性が止める一方で、誰かの助けがほしかった。
沙樹が胸に飛び込んだ勢いで、ハヤトは傘を落とした。
「沙樹……さん?」
「ごめん。胸、貸して……」
一度涙が流れ始めたら止まらない。ずっと我慢していたのに、人の優しさに触れたとたん緊張していた気持ちが緩んだ。
解っている。ハヤトはワタルではない。
だから、ワタルの、代わりに、すがっては、いけない……。
でも今だけは、その優しさに包まれていたかった。
☆ ☆ ☆
だれもいない浴室で湯船につかっていると、沙樹の混乱した気持ちが少しずつほぐれてきた。お湯の中で凍えた体を温める。たったそれだけのことで落ち着けるなんて。人間は単純だ。
それともこんな人は自分だけ? と考えたら笑みまで浮かぶ。
風呂を出て浴衣に袖を通す。鏡に映る自分は、入浴前と比べて穏やかな顔をしているような気がした。
部屋に戻ると、ほどなくして、マグカップを持ったハヤトが訪ねてきた。
「凍えてたらいけないと思ってホットミルクを入れてきたけど、ピンクのほっぺしてるんだね。お風呂上がりだってこと、すっかり忘れてたよ」
これならビールの方が喜ばれたかな、とハヤトは猫背でマグカップの中を覗きながら独りごちた。
「そんなことない。ありがとう。とっても嬉しいよ」