第四話 冷たい雨(五)
ハヤトは電話を切ってふりかえった。
「あれ? 沙樹さん?」
格調高いピアノの演奏が静かに流れるロビーには、沙樹の姿がなかった。ハヤトは慌ててホテルを飛びだした。外は本降りになっている。
「ったく。この雨の中、傘もささないでどこに行ったんだ?」
旅行者の沙樹に土地勘があるとは思えない。
「さっきの電話が原因なのか? いったい何を聞かされたんだよ」
沙樹のようすから、この旅が傷心旅行だとハヤトは見抜いていた。だから少しでも平常心を取り戻してもらいたくて、なるべく時間を作って一緒にすごした。
だがその優しさは、思いもよらない結果を生むところだった。直前でなんとか引き返せたものの、却って沙樹と自分自身を混乱させた。それだけに自棄を起こしはしないかと気が気でない。
雨脚は激しく、ハヤトはこの中に飛び出すのを躊躇した。だが沙樹はそれすら眼中になかった。こんな雨にも関わらず姿を消した。
「ええいっ! ずぶ濡れになったっていいやっ」
ハヤトは大きく息を吸いこみ、飛び込み台からプールに入る気持ちで踏み出す。
☆ ☆ ☆
雨の中を歩きまわったところで、他人の心は変えられない。莫迦なことはやめて、早く宿に戻ろう。
時間の経過も解らないくらい歩き回り、沙樹はようやく頭が冷えてきたのを自覚した。でもここはどこ?
自分のいる場所を確認しようとして、ポケットにスマートフォンのないことに気づいた。バッグもすべてホテルのロビーに放り出したままだ。
どうやって帰ろう。ずぶぬれの上に財布もなければ、タクシーも利用できない。路面電車の線路をたどれば、旅館にたどり着けるだろうか。
土砂降りの雨の中、人通りは途切れている。暗い夜道を照らす街灯も、霞んだ光を控えめに灯していた。通りを走る車はワイパーをせわしなく動かせ、水しぶきをあげる。
予定を早めて、朝になったら帰ろう。あとのことは考えたくもない。
沙樹は暗い空を見上げた。冷たい雨が冷え切った頬にささる。
歩くのに疲れた。ひと休みしろと言わんがばかりに、信号が赤に変わる。交差点に止まる車は、青信号になったとたん一斉に動き出す。
突然クラクションの音が響いた。無謀運転をする車が一台、対向車の隙間を縫うように交差点でUターンし、沙樹の前方で止まる。
運転席のドアが開き、誰かが降りて沙樹に近づいて、傘をさしかけてくれた。
「何してんだよ。ずぶ濡れじゃないか」
「ハヤトくん?」
「ずいぶん捜しまわって、やっと見つけたよ。事故じゃなくてよかった。早く乗って。このままだと風邪ひくよ」
「でもシートを濡らしてしまうし……」
「そんな気遣いはいらないよ。それより早く帰って体を温めないと」
「いいよ、そんなこと心配しなくて」
沙樹はハヤト申し出を無視し、横を通り過ぎようとした。すれ違う瞬間、ハヤトの手が沙樹の腕を捕らえる。




