第四話 冷たい雨(四)
哲哉は急に口をつぐんだ。
電話の向こうで言葉を選んでいる気配が伝わり、黒い雲が沙樹の全身に広がる。
「何があったの? 知ってるなら黙ってないで答えてよ」
『知らないのならその方がいい。とにかく帰ってこいって。話はそれからだ』
「教えてくれないの? ならいいよ。ネットで調べたらすぐに解るんだから」
哲哉はわずかな時間沈黙し、ふっと息を吐いて話を続けた。
『確かにそうだな。黙ってる意味ねえか。じゃあ言うけど、気を確かにして聞いてくれよ』
うん、と言ったつもりが喉に引っかかって出なかった。哲哉の大きなため息が聞こえる。沙樹の動悸が速くなり、掌に汗がにじむ。
『ついさっき、浅倉梢がワタルとの交際を正式に発表したよ』
——浅倉梢が……何を発表したって?
——交際?
——ワタルさんと?
『三十分ほど前に明日発売の週刊誌の予告記事が出たって、さっき事務所から連絡が入ったんだ。にわかには信じられなくておれもアクセスしたけど、本当だったよ』
——正式に、交際を、宣言した……?
『ワタルはまったく何をやってんだか。西田さんって人がいるのに、トップクラスのアイドルと交際するなんて。記事を読んでもまだ信じられない。
略奪愛だの心変わりだのってイヤな噂は流れても、二股や浮気なんて不誠実なことには一番縁のないやつだったんだぜ。どれだけまわりにちやほやされても、あいつの誠実なところは変わらないと信じていたのに』
沙樹の手からスマートフォンが滑り落ち、ソファーの上に転がった。そのときだ。
「沙樹さん、どうしたの?」
背後でハヤトの声がした。だが沙樹はふりかえれない。体が硬直して動けなかった。
スマートフォンからは哲哉の声が響いている。そのまま立ち尽くしていると、ハヤトが拾って電話に出た。
「すみません、沙樹さん、具合が悪いらしくて——。えっ、ぼくですか? 沙樹さんの……友達です」
これからどうすればいい?
去って行った恋人を追いかけて、こんな遠くまで来た。愚かな女は、自分が捨てられたことに気づけず、影を頼りにここまで追いかけてきた。
——キミとはもう終わったんだよ。
会えない時間は暗にそのことを告げていた。そんなことすら解らないなんて。これ以上の喜劇がある?
おぼつかない足取りで、沙樹はロビーから出た。行くあてなどないが、ここにはいたくない。こんなみっともない姿を、ハヤトに見られたくない。
外は激しい雨が降っていた。
傘はいらない。冷たい雨に全身を打たれ、心の奥にある残り火を消してしまいたい。
タクシーの列に吸いこまれる客たちを横目に、沙樹はふらふらと歩いた。枯葉が雨水に流され排水溝に消えていく。
ワタルへの想いもこの雨に流されて消えてしまえばいい。
消えてしまえばいいのに。