第四話 冷たい雨(二)
「ここでバイトしているの?」
「イエスっ。裏方で食器洗ったり食べ物の盛りつけしたりして、コマネズミのように働いてます」
グラスの中にはハート形のチョコレートが入っていた。沙樹はウィスキーの水割りを一口飲み、グラスをテーブルにおくと、氷がカラカラと音をたてピアノと響きあった。
車のヘッドライトが街中を行き交う。
夜景を見つめながら、沙樹はワタルがステージで演奏している姿を思い浮かべた。
この街明かり中にワタルはいるだろうか。ここに来たのは、正しい選択だったのか。
ワイドショーが伝えていた、ワタルがつきあっていた一般女性とは、自分のことなの?
もしそうなら、バンドメンバーにすら知られていない事実をどうやって突き止めたのだろう。
自分はとんでもない独り相撲をとっているのかもしれない。とうに見限られていたのに、そんなことにすら気づけない愚か者なのか……。
頭の中で疑問が浮かび、消えていく。
そのとき沙樹の考えを遮るようにハヤトが「ふう」とため息をつき、テーブルにうつぶせた。
「どうしたの?」
「ねえ沙樹さん、何かつらいことでもあった?」
ハヤトは足元の夜景をじっと眺めている。
「自分では気づいてないかもしれないけど、沙樹さんはいつも切ない表情してるよ。冗談いってるときや、笑ってるときさえもね」
沙樹はウインドウに映る自分の顔を見た。哀しみの色をにじませた瞳の女性がこちらを見ている。
「ライブハウスで最初に見かけたときから、ずっと気になってたんだ。だから声をかけてみた。けど初対面の相手にこんなこと聞けなくて」
ピアノの音が響く。
「なぜ今になってそんなこと訊くの? 質問できるくらいには親しくなれたってことなの?」
ハヤトは気だるそうに起き上がり、ゆっくりと首を横にふった。
「——そうじゃなくて」
ハヤトは言葉を止め、グラスについた水滴を指でなぞる。
「窓ガラスに映る自分が、沙樹さんと同じ目をしてるって今気づいた。だから——」
街の灯りが揺れる。沙樹は窓ガラスを通してハヤトと視線を合わせた。何か言いたげな瞳が沙樹の心をかき乱す。不意にハヤトは目をそらした。
「いや、なんでもない。ごめん、忘れてよ。こんなこと言うなんて、素面なのに雰囲気に飲まれちゃったよ。今のぼくは変だね」
ハヤトは前髪をかき上げ、ぎこちない笑顔を浮かべた。
伝えたい何かがあるのに、沙樹は言葉にできない。
「ごめん。何も言わなくてもいいよ。忘れて」
「……だれにも何も告げすにいなくなった人がいるの。苦楽を共にしてきた大切な仲間に、一言も残さずに消えてしまった。あたしも仲間も、突然のことにどうしていいか解らなくてね」
沙樹は遠くに広がる暗い海を見つめた。時折灯台の灯りが水面を照らす。真っ暗な闇の中、一筋の光を頼りにここまできた。
「続けなくていいよ」
「だからあたし、だめでもいいから、捜さずにはいられなかった。自己満足でもいい、ただじっと待ってることに耐えられなくて」
「もういいって」
一度口にすると言葉が溢れそうになる。
誰にもいえないかずかずの秘密。捨てられた女の悪あがき。ワタルの気持ちを考えない自己満足の行動。浅倉梢へのささやかな意地と抵抗。そしてマスコミが嗅ぎつけつつある自分のこと……。
すべて話して楽になりたかった。
ひとりで抱えるには辛すぎる想い、そして心の奥に芽生えつつある新たな想い。ひとつ残らず吐き出してしまえば、胸に広がる鈍い痛みは消えるの?




