第三話 ライブハウス(三)
「ハヤトがジャズなんて珍しいわね」
突然声をかけられて顔を上げると、長い髪をツインテールにし、クリっとした瞳が印象的な女性が立っていた。
「麻衣、来てたんだ」
「うん。実は近藤先輩に『バンドに入らないか』って誘われたの。それでライブを見に来たら、ハヤトが歌い始めて驚いちゃった。バンドでボーカルしているから歌が上手いのは知ってたけど、ロックだけじゃなくジャズも歌えるのね。ほんと、器用なんだから」
麻衣と呼ばれた女性がテーブルの空いた席に座ろうとすると、ハヤトはすばやくたちあがり、彼女のために椅子を引いた。ありがとう、という声にハヤトは顔を赤くした。
「麻衣がバンドに入るって? 近藤先輩、本当なの?」
「そうだよ。吹奏楽部でずっとサックスを吹いてたって聞いたからね。この前演奏を聴かせてもらったら、予想以上に上手かったんでスカウトしたのさ」
「麻衣が入るって話を聞いたら心が揺れるじゃないか。ああ、でもうちのバンドメンバーを裏切ってジャズバンドに入るなんてできないし。ぼくはどうしたいいんだ?」
ハヤトがおどけて頭を抱え込むと、ふたりは声を出して笑う。
「あたしと近藤先輩を取るか、今の仲間を取るか、じっくり考えてね」
麻衣がそう言いながらハヤトの肩を軽く二、三度叩くと、ハヤトはまんざらでもなさそうに照れ笑いをした。
ハヤトと地元の仲間との気のおけない会話が続く。沙樹は中に入りたくともきっかけすらつかめない。
居心地の悪さを感じているときだった。麻衣の伸ばした手がグラスを倒し、中のカクテルがテーブルを伝って麻衣の服を濡らした。
「麻衣、ちょっと待ってて」
ハヤトはすかさずテーブルのナプキンを麻衣に渡し、席を立って店の奥に駆け込んだ。厨房から借りて来たと思われるタオルを手にして戻り、麻衣の服を丁寧に拭う。
その間沙樹にできたことといえば、濡れたテーブルをナプキンで拭き取るくらいだった。
「このワンピース、お気に入りなんだろ? 染みにならないといいね」
「大丈夫よ。ハヤトがすぐに拭いてくれたんだもん。ありがとう」
年末のクラス会でゆっくりと話しましょうね、と言い残して麻衣はテーブルを離れた。
キリッとした少女は爽やかな笑みを残し、ハヤトはその後ろ姿に軽く手をふった。
沙樹にだけ特別よくしてくれるのではない。ハヤトは相手がだれでも親身になる。
そう、だれにでも。
沙樹の心に冬の冷たい風が吹き込み、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「……えっ?」
「ん? 沙樹さん、何か言った?」
「う、ううん、なんでもない」
まさかそんなこと、あるはずがない。でも——。
心の底で何かがざわめいた。
早くワタルに会いたい。自分の気持ちに自信がなくなる。浅倉梢がワタルの心をつかんでいるとしても、沙樹の心は揺るがないはずなのに。
ハヤトの飾らない態度、お節介なくらいの親切は、疲れた沙樹に懐かしいものを運んできて、心のドアをノックする。
拒めないのは意志の弱さか。迷う心の隙間ゆえなのか。
戸惑う気持ちを胸に抱き、沙樹は空っぽになったグラスの縁を指でなぞった。
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