第三話 ライブハウス(二)
ボーカルがいきなりハヤトに手を差し伸べると、客の視線が集中した。
「え? 先輩、なんでいきなり?」
ハヤトは目を丸くして、ステージに向かって話しかける。
「今日は来てくれてありがとうな。久しぶりに一曲どうだい?」
「飛び入り? 打ち合わせもしてないのに」
「昔よく演奏した曲なら、なんとかなるだろ」
「なんとかねえ……」
ハヤトは頭をガシガシとかき、苦笑しながら席を立つと「中田先輩のご指名とあらば、断るわけにはいかないか」とつぶやいた。
ステージに向かう足取りは言葉と裏腹に軽い。
リハーサルなしにできるものかと、沙樹は不安を抱きながらステージを見守った。簡単な打ち合わせをすませると、ハヤトはマイクの前でギターを弾きながら歌い始めた。
耳に馴染んだアメリカンスタンダードは元気に弾むポップな曲で、ハヤトの明るい性格そのままだ。そしてこの曲は、哲哉たちオーバー・ザ・レインボウがアマチュア時代に何度となく演奏していた。
ロック中心のバンドが得意とする曲の中で数少ないポップな曲だった。
「あ、また……」
沙樹の胸が苦しくなる。昨夜、ハヤトたちの演奏を聴いたときに感じた懐かしさがよみがえった。
なにかが沙樹の胸をかすめる。覚えのある感情だが、あえて無視する。
考えたくない。今はまだ、何も考えたくない。心の中でつぶやく。
わきあがる不思議な感覚に不安を覚えながら、沙樹はステージで演奏するハヤトをじっと見ていた。
☆ ☆ ☆
翌日訪れたのは、ジャズ専門のライブハウスだ。
ワタルは頻繁にジャズを聴いている。だが演奏するところを見た記憶はない。
もっともワタルはジャンルを問わず幅広く聴くタイプなので、ここを訪れていても不思議ではない。だがここでは弾き語りをしていないだろう。沙樹の予想通り、店内に飾られているサインの中にワタルのものはなかった。
沙樹は店とバンドのデータ入力を済ませて、ハヤトとともにリラックスして演奏に耳を傾けていた。
ワタルを思うと不安と焦りがあるはずなのに、今だけはそれに悩まされていない自分が意外だった。これこそが優しく奏でられる音楽の力かもしれない。
そんなとき突然、ステージからハヤトに呼び出しがかかった。
「また? 二日続いて飛び入りを要求されるとは思わなかったよ」
ハヤトはグラスの水を飲み干し、勢いよく立ち上がった。
「ジャズも歌えるの?」
「家にアルバムがたくさんあるから、スタンダードナンバーなら歌詞を暗記してるよ。母さんが好きで、子守唄代わりに聴いて育ったんだ」
得意顔で答えるとハヤトは軽やかにステージに上った。簡単な相談をしたのち、マイクの前に立つ。キーボードがイントロを奏でると、柔らかな歌声が聞こえてきた。
——どんなに辛くて悲しいことがあったとしても。
——そう、例えばあの空が暗い雲で覆われたとしても。
——それでもきみ、笑ってくれないかな。
英語の歌詞が沙樹の心を揺さぶる。淡々とうたい、決して感情を大げさに表現しない。しっとりとしたメロディを浮き立たせる静かな歌い方に、店内の客は会話を中断して聞き惚れている。
一曲だけの歌が終わると、観客から大きな拍手が起こった。
ライブは無事に終わり、店内を満たす曲がジャズのアルバムに切り替わるころ、客たちはまたそれぞれの世界に戻った。
沙樹は小さく拍手をして、ステージを降りたハヤトを迎え入れた。生演奏を終えたバンドリーダーの近藤が、沙樹たちのテーブルに立ち寄った。
「ハヤトは器用でしょ。普段はロックをやってるのに、ジャズを歌わせても一流なんです。ロックをやめてうちに入れって誘ってるんですけど、なかなか首を縦にふってくれないんですよ。もったいないと思いませんか?」
「近藤先輩、またその話? ぼくは今のバンドを抜ける気はありませんよ」
わずかにほおを紅潮させて頭をかき、ハヤトは照れ隠しするようにソフトドリンクを手に取った。
沙樹には、ハヤトの才能がどの程度なのかは解らない。だが魅力のある歌声に加え、ムードメーカーだから、どこに行っても受け入れられるだろう。