第一話 すきま風と大きな手がかり(四)
「仕事と言えば、得能くんは曲作り進んでる?」
『だめ、まーったく進んでない。一応数は作っているけどさ。アルバムのテーマが決まってないから、思うようにまとまらないんだ。ワタルの抜けた穴は痛いよ。
無事に帰ってきたら、あいつをどこかに祀っておこうと思ってるとこさ』
「祀る?」
金の屏風を背にして床の間に飾られているワタルの姿を想像し、沙樹は失笑した。
「それって、いいかも」
『だろ? なんなら西田さんも横に座りなよ。ふたりでお雛様になれるぜ』
「遠慮する。見てる方が楽しそうだもん」
哲哉は努めて気分を和ませてくれる。
仕事の進捗を考えれば、沙樹以上に大変なのかもしれない。なのに、それを微塵も感じさせない。
いつもの調子で雑談を交わしているうちに、沙樹は心の底に巣食っている重い物が消えているのを実感した。
『じゃあな。また何か思い出したら連絡するよ。おやすみ』
「得能くん、待って」
沙樹は電話を切ろうとする哲哉を止めた。特別言いたいことがあったわけではない。もう少し声を聞いていたかった。
『なんだい?』
「えっと……ありがとうね」
いろいろな感情が溢れてきて、それらを悟られないように普通に答えたつもりだった。だが。
『にし——沙樹さん。大丈夫?』
哲哉は珍しく沙樹を名前で呼んでくれた。
「うん、大丈夫だよ」
『泣いて……ないみたいだな』
こちらの顔は見えないはずなのに、哲哉にはすべて見抜かれている。
声だけですべてを読めるのは、アーティストの持つ感性の鋭さに違いない。
沙樹は一呼吸おき、いつもの声に戻した。
「また明日電話するね。今くらいの時間だったらいい?」
『いいよ。ただし、ひとりで部屋にいるとは限らないけど』
ひとりで部屋にいるとは限らない?
予想もしない返事に、沙樹は一瞬言葉をなくす。
「ちょ、ちょっと待って。ひとりじゃないって……まさか、彼女と一緒?」
哲哉に恋人がいたなんて初耳だ。いつ彼女ができたのか。
いやそんなことより、こんな遅い時間に他の女性と話していると知ったら、彼女が怒り出すかもしれない。
「ごめん、全然気づかなくて。あたし、彼女に謝らなきゃ。今一緒なの? だったら電話替わって——」
『なあに、そのことなら心配するこたあないさ。帰りにうまいものを買ってきてくれたら、おれは満足だぜ』
それだけ言い残すと、沙樹の返答を待たずに哲哉は電話を切った。
沙樹のうろたえを楽しんでいるようだったが、これがいつもの哲哉なりの励まし方だ。
そんなことより、哲哉の彼女はどんな人物だろう。よくまあ隠し通したものだ。
沙樹はワタルとのことを棚に上げて、哲哉の彼女候補を考える。だがいくら考えてもヒントすら出てこない。
「帰ったら紹介してもらうんだから」
しかしいくら約束の時間とはいえ、彼女が一緒なら無理して電話することもないだろう。
「あたしがワタルさんを捜しにきてるってことも、得能くんが連絡係をしていることも、彼女は承知してるのかな」
スマートフォンを手にしたまま、いろいろと哲哉の周りを考えつつ、沙樹は疲れた体を横たえた。ふかふかの布団が心地よい。
取るものもとりあえず東京を離れた。
慌ただしく過ぎた初日は、寝場所を探して彷徨う寸前で回避され、なんとか順調なスタートが切れた。
「ハヤトくんのおかげだね」
軽く目を閉じると、よく動く印象的な瞳を思い出す。
そうしているうちに睡魔に襲われ、沙樹は深い眠りに落ちた。
以上で第二章第一話「すきま風と大きな手がかり」は終わりです。
次回より第二章第二話「揺れる想い」に入ります。
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お話はまだ続きますので、ぜひお読みくださいね。




