第一話 すきま風と大きな手がかり(二)
ハヤトの家が経営するみなみの旅館は、温泉街の一角にある小規模旅館や民宿のひとつだ。
旅館と名乗ってはいるものの、民宿という方がふさわしい規模だった。
受付にいたのが母親だろう。親しみやすい雰囲気がハヤトと似ている。
遅い時刻の飛び込みをわびると、「よくある話ですよ」と優しく微笑んだ。
ベルボーイよろしく荷物を手にしたハヤトに案内されて、沙樹は部屋に向かった。
「大きなホテルや旅館みたいに立派な設備はないけど、家庭的なところを楽しんでってね」
ときどき沙樹をふりかえりながら、ハヤトはざっと建物内の説明をしてくれた。そして二階奥の部屋の前で止まり、鍵を開けた。
「ここだよ」
十二畳ほどの部屋は新しい畳の匂いがして、フローリングのマンションに住む沙樹に、田舎に住む祖父母の家を思い出させる。
「部屋の鍵、忘れないうちに渡しておくね」
「ありがと」
受け取ろうとしたとき、ハヤトの指と沙樹のそれが軽くふれた。瞬間、微量の電流が沙樹の体を走った。
沙樹は慌てて手を引っ込める。不意に車での出来事が脳裏に浮かんだ。
自然に流れる日焼けした黒髪とよく動く黒い瞳、そしてかすかに香るフローラルの匂い――。
沙樹の胸にさざ波がたつ。
「荷物、ここでいい?」
「え?」
沙樹は平穏を装ってふりかえった。
鍵を渡されたときの妙な感覚が体に残っている。何かに対する恐れが判断を狂わせ、沙樹はひったくるように荷物を取った。
「あっ」
ハヤトは手を離すタイミングが遅れ、バランスを崩し、沙樹に倒れかかる。
沙樹は無意識のうちに避けようとして足元がよろけ、壁に背中をぶつけてしまった。
「いってー」
すぐ耳元で声がした。
ゆっくりと目を開けた途端、ハヤトの顔が飛び込んできた。沙樹にぶつかるのを避けようとして、右手を壁に押しつけている。
頬にハヤトの息がかかった。
これが俗にいう壁ドンなのね、と感じた途端、沙樹の頬が急に火照った。
「あっ、ごめんなさい!」
ハヤトは頬を赤らめて飛び退く。沙樹が固まっていると、
「大丈夫、背中痛くない?」
と心配そうに訊いた。
沙樹はうなずくことしかできない。
「よかった、怪我がなくて。ぼくは右腕がじんじんするよ」
ハヤトは右腕を軽くふりながら苦笑した。
「うーん。ギターを弾くのには影響ないか」
右手を握ったり開いたりして、腕の具合を確認している。
「よし、大丈夫だ。じゃあ、おやすみなさい。よい夢を」
「……おやすみなさい」
元気な挨拶を残してハヤトは出て行った。
静けさの戻った部屋に、フローラルのかすかな香りが残っている。
何かが胸をかすめた。
「な、何よ。ちょっと壁ドンされたくらいで。女子高生じゃあるまいし。莫迦莫迦しい」
何事もなかったように、沙樹は倒れたスーツケースを起こして部屋の隅においた。そのとき畳の上で、何かが灯りを受けて反射しているのをみつけた。
それはギターをモチーフにしたキーホルダーで、ワタルをイメージして作られたバンドメンバーのグッズだ。
スーツケースにつけていたが、今のハプニングでパーツがとれてしまったようだ。
星形の部品を手に取って見つめると、ワタルの笑顔が重なり、陽炎のごとく揺れて消えた。
入れ替わるように、黒髪の青年の後ろ姿が浮かぶ。
「ちょっと待ってよ。これってどういうことなの?」
沙樹は首をふってその影を追い出した。
「ねえワタルさん、どこにいるの? 早く会いたいよ……。でないとあたしの想いまでいなくなってしまいそうよ……」
予想すらしなかった心の小さな変化に一番戸惑っているのは、他でもない沙樹自身だった。




