第三話 差し込んできた光(六)
哲哉は沙樹の肩から手を下ろし、壁に貼られたオーバー・ザ・レインボウのポスターに視線を移した。
先日終わったツアーで販売されたもので、リーダーのワタルを中心に、メンバーが楽器を演奏している姿をコラージュしたものだ。
「みんなどうして途方にくれるんだろうな。ワタルがここまで偉大なリーダーだなんてさ、夢にも思わなかったぜ」
「いなくなって価値の解るタイプね」
「おれにとっちゃ、空気みたいな存在かもな。一緒にいて当然で、いなくなるとどうしていいのか解らなくなっちまう。
重要なことは全部ワタルがやってくれてたんだって、やっと気づいたよ」
哲哉とワタルは家が近所だったこともあり、物心ついたときは隣にいる存在だった。
意見の衝突や喧嘩は数えきれない。常に真剣に向き合ってきたからこそ、親友と呼べる存在になり、絆も生まれた。
苦しさに耐え切れず道を誤りそうになった哲哉に、希望の光を見せ、正しい方向に呼び戻してくれたのもワタルだ。
「そんな話聞かされると、得能くんに嫉妬しちゃうよ」
「こら。おれは西田さんの恋敵じゃねえよ」
「本当に?」
「信じてないのか? 彼女なのに」
沙樹はほんの少し目を丸くし、やがて細めて微笑んだ。
「うん。信じてる」
哲哉もつられて口元が緩んだ。
「でも、まいったな。西田さんの涙、初めて見たよ。高校生のころから知ってるけど、人前では絶対に泣かないタイプだと思ってたぜ」
「血も涙もない人に見えてたの?」
「うん」
即答すると、沙樹は肩を落とし小さくため息をついて、恨めしげに哲哉を見返した。赤くなった目が痛々しい。
「冗談だよ。強いて言えば、お母さんかな。悪いことするといつも怒られてただろ。
でもそれ以上に世話焼いてくれてさ。お袋さんってこんな雰囲気なのかなって思ってたよ」
哲哉にとって沙樹は、口うるさいが面倒見のいい母親のような人だ。
「だからさ、西田さんとワタルがつきあってるって解って、おれマジで嬉しかったんだぜ。なのにあんなこと言って、弱気になるんだから……」
柔らかな頬を濡らす涙を思い出し、哲哉は言葉を詰まらせた。
しばらくの間、ふたりを沈黙が包む。風に乗って電車の音が、静かな部屋に響く。
やがて沙樹は吹っ切れたような笑顔を浮かべ、
「そうだね。弱気になるなんて、あたしらしくないね」
そう言うと席を立ち、食器棚を開けてグラスを二個出した。
「今日はもうボイストレーニングや打ち合わせとか、ないんでしょ?」
「ああ」
「よかった。準備した料理が無駄にならなくて」
沙樹はキッチンに入ると白ワインとアンティパストを持ってきた。
「ここ二、三日あまり作らなかったから、久しぶりにがんばっちゃった」
カルパッチョにマリネ。ガーリックトーストにはサーモンのパテが添えられている。
出されたチーズを肴に白ワインを楽しんでいると、ほどなくしてオリーブオイルをたっぷりと使ったブロッコリーとベーコンのペペロンチーノが出てきた。
チーズの焦げる匂いもする。ピザを焼いているのかもしれない。
バンドメンバーみんなも一緒だったらよかったのに、と哲哉は思う。
アマチュア時代は、こうやって仲間で何度も集まった。料理好きのワタルが中心になって、みんなでわいわいやりながら、将来のことを熱く語りあった日々が懐かしい。
沙樹はバンドメンバーではないが、だれもが六人目の仲間だと思っている。この中のだれが欠けてもいけない。
沙樹とワタルの間に何か問題があるなら、絶対に修復する。まだ間に合うはずだ。
いや、間に合わせてみせる。
ただがむしゃらに走っていた懐かしい日々に思いを馳せ、哲哉はその日を取り戻そうと決意した。
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