4
「あれ、今日は早いですね?」
署を出ようとしていた椚山は、背後から聞こえた同僚の声に足を止めた。
交番勤務自体は午前八時半までだが、そこから交代員との引継ぎやら、署に戻ってからの残務処理もある。午前中に家に帰れることの方が少ない。しかも夜勤明けだ。珍しく午前中に勤務が終わったというのに、これから同僚のおしゃべりに付き合わされるのでは、たまったものではない。
椚山は曖昧な笑顔を作ってその場をやり過ごそうとした。
けれども同僚の「結局見つからずじまいでしたねえ」という呟きに、足を止める。
「ああ、あれか。まだ終わったわけじゃないだろう」
「そうですけど、もう一か月です。小学四年生の男の子ひとりで生きていける日数じゃない。連れ去られたのか、事件に巻き込まれたのか、それとも……」
「それとも殺されたのか。あの親、虐待の疑いもあったそうじゃねえか」
「それですよそれ!」
同僚が、我が意を得たりとばかりに、人差し指を立てた。
「児童相談所も対応に当たったそうですが、結局決定的な証拠はないし、目撃者もいない。私も同じくらいの息子がいるんでね、いたたまれないですよ」
「まったくだな」
なんとも言えない沈黙が、二人の間に流れた。と、署内の奥の方から、同僚の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、では! 椚山さん、夜勤明けの非番でしたね。足止めしちゃってすいませんでした。ゆっくり休んでくださいよ」
お互いに軽く手を振って別れた。
椚山は職場である警察署を後にする。
職員用の裏口を出ると、初夏のギラギラとした日差しが、夜勤明けの目に眩しかった。
そういえば、胡桃に出会ったのも、確か非番の日であった。
小学四年とは思えない華奢な体と、いたるところにできた青痣が脳裏に浮かぶ。
あの日、胡桃にもっと関わっていればよかった。迷惑がられたとしても、家まで送り届ければよかった。そんな思いが、しこりのように胸の奥にある。
しかし。
時には下手に手を出すことで、親の怒りに火を注ぐことがある。それどころか、軽はずみな親切心で、悲劇的な結末を招いてしまう恐れもあるのだ。胡桃をまるごと受け入れるだけの覚悟が、自分にあっただろうか?
そんな覚悟もなかったくせに、小さな後悔が胸の中で疼く。
ほわんとした胡桃の笑顔を思い出すたびに、ぎゅっとシャツの上から胸を掴んだ。
そういえば胡桃と出会ったあの日以来、ひと月ほど『猫のしっぽ』に顔を出していない。
今日あたり、飯を食いに行ってみようか。
そう考えてあたりを見回すと『猫のしっぽ』と書かれた看板が目に入った。
不思議なもので『そろそろあの店の飯が食いたいな』『うまいコーヒーが飲みたいな』などと考えたとたん、待っていたかのように猫カフェの看板が現れる。
初めて訪れたのはいつのことだっただろうか。ずいぶんと昔のことで、忘れてしまった。
『この店の看板は、見えないものには決して見えない。けどね、一度でも見つけることができた者なら、望めば必ず見つけることができるのさ』
そう椚山に教えてくれたのはシルバーで、あの頃はまだ自分の足で立って歩いていた。
それから数え切れないほど椚山は『猫のしっぽ』を訪れている。
点々と立つ看板に沿って進んでいく。レトロな木塀に囲まれた住宅街を通り抜け、しだいに家がまばらになり、丘の上に小さなカフェが見え始める。
入口に大きな木が一本あって、その枝に猫の形の木製の看板がぶら下がっていた。
『猫カフェ 猫のしっぽ』
木製の扉を押し開けて店内に足を踏み入れると、いくつもの「いらっしゃいませ!」という声が椚山を出迎えてくれた。
「あ! 椚山さん!」
カウンターの中から聞こえた声に、椚山ははっとした。胡桃の声によく似ていたからだ。
来る直前まで胡桃のことを考えていたからだろうか。そう自嘲して声のした方向へ顔を向ける。そして椚山は、そのまま固まってしまった。
「いらっしゃいませ」
視線の先には真っ白い半そでの開襟シャツにベージュの半ズボンと、白いカフェエプロンをつけたかわいらしい男の子が立っていた。
「くる……み?」
男の子はカウンターの中から出てくると、ぺこりと大きく、椚山に頭を下げた。
なぜ胡桃がここに? そう訊ねたくても、舌が固まってしまって動かない。
行方不明になった男の子の名前と顔写真を見せられた時の衝撃は、はっきりと覚えている。あの日猫カフェで会った胡桃に間違いがなかったからだ。
それなのに胡桃は今、何事もなかったかのように椚山の前にいる。
椚山は莫迦みたいに口を開けたまま、ただ胡桃を見つめる事しかできなかった。
「あの、ぼくどこか変ですか? ねこさんたちに言葉使いとか、お店の事とか、いろいろ教えてもらってはいるんですけど」
胡桃は顔を赤らめる。
「……いや……」
ようやく絞り出した声は、掠れて変な具合だった。んん、と喉を鳴らし、調子を整えてから、とても似合っているよと言ってやると、胡桃は恥かしそうな笑顔を浮かべた。
半そでのシャツから出た腕は相変わらず細いけれども、白く滑らかだ。ベージュの半ズボンから伸びる足にも、かつて見たような痣など、どこにも見受けられない。何よりも、胡桃の表情が明るい。
椚山が注文したチーズハンバーグを運んできたのは胡桃だった。ハンバーグとご飯とサラダとコンソメスープを、ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に椚山の前に並べていく。見ている椚山まで思わず力が入ってしまいそうなほど真剣な表情だ。
「胡桃」
「はい」
「胡桃……お前は……」
しかし、胡桃の笑顔の屈託のなさに、言おうとした言葉は腹の底に凝って沈んだ。
「仕事は楽しいか?」
結局そんな質問が口を衝く。
「はい、とっても!」
元気に答えた胡桃の頭にポンと手を載せ「頑張れよ」と微笑んで見せた。
「よし、食うか!」
勢いよく、少し大きめに切ったハンバーグを口の中へ放り込む。
隣で様子を見守っていた胡桃は「うまい」という椚山の声に頬を緩めた。
「よかった、ゆっくりしていってください」
笑顔のまま、仕事へ戻っていく。
見送る椚山の背中へ、また別の声がかかった。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、車いすの車輪を手で回しながら近づいてくるシルバーの姿があった。
「シルバー。お前、胡桃を攫ったんだな」
椚山は白い老猫を軽く睨んだ。
虐待されている胡桃は、いかにも化け猫たちにとって好都合だったに違いない。
「人聞きの悪いことを言わないどくれ。あの子も望んだことさ」
「そりゃあ、胡桃だって逃げ出したかっただろうさ。あんたら猫たちにとっては都合が良かっただろうって事だ」
「なんだい、面白くなさそうだねえ」
「そりゃあそうだ。胡桃はこの先どうなるんだ? ずっと猫と暮らすのか? 人間の世界でまた暮らせるようになるのか?」
「私にはよくわからないんだが。なんで、人間の世界で暮らさなくちゃいけないんだい? それがそれほど重要なことなのかい?」
「そんなの、当り前じゃねえか。胡桃は人間だぞ。人間の世界から逃げ出して生きていくっていうのか? それでいいのか?」
「椚山さん。いいかどうかなんていうのは、見る人によって違うんじゃないかねえ? それよりさ、人間の世界で胡桃は幸せだったと思うのかい? あんただって幼いころ、胡桃のような子どもだったじゃないか。似たような怯えた目をしていたもんさ。あんた、あの頃の自分を忘れたのかい?」
鼻白む椚山を、シルバーは無視して話を進めた。
「私たちはことあるごとにあんたをこのカフェに招き入れた。けどあんたには印がなかった。それはね、あんたは人間の世界で生きていける人間だったってことさ。けどね、椚山さん。いや、あの頃のように正人と呼ばせてもらおうかね。正人、皆がみんな、あんたみたいに強いわけじゃないんだよ。あんたは人間の世界で生きていけた。そして、立派な大人になった。自分ができたから胡桃もできる? 人間の世界で生きていく辛さをよく良く知っているあんたじゃないか」
小さい子どもを見るような眼差しで、シルバーは椚山を見つめていた。
『俺、家になんて帰りたくねえや。ここに置いてくれよ! なんでもするよ!』
胡桃と同じくらいの年だったろうか。かつての自分自身の言葉が、不意に蘇る。
「正人自身もよく頑張ったよ。それにさ、あんたにはいたんだろう? あんたを受け止めてくれた人間ってやつがさ……」
シルバーの言うとおりだった。自分には手を差し伸べてくれる教師や親戚がいた。もうダメだと思った最後の最後に椚山を受け止め、引き受けてくれた人々がいた。一緒に戦ってくれる大人たちがいた。
「それがないまま、生きていけない子どもだっているんだよ、正人。救いの手がない子もいる。あまりに優しくて弱いがゆえに、差し出された手を取ることのできない子どももいるんだよ。消えていかざるをえない者たちだって、いるんだよ」
シルバーの言葉が、椚山に突き刺さる。
自分はあんなに周囲から助けてもらっていたというのに、椚山には胡桃を抱え込む勇気も決断もなかった。
今度は自分が、手を差し伸べる側になれたかもしれないのに。
椚山はさっきまであれほどうまかった肉の塊を、無理矢理ごくりと飲み込んだ。
喉がカラカラで、なかなかうまく飲み込むことができなかった。泣いているわけでもないのに、喉の奥が塩っ辛い。
そして、椚山は大きな声で笑いだした。
「まったくだ!……ほんとうに……違いねえや!」
俺は、何もできなかった。
ごちそうさん、テーブルの上に五千円札を置いて、逃げるように店を後にした。
泣いている子どもがいる。助けを求めている子どもがいる。
そんなこと、椚山には痛いほどわかっていたはずだ。
――それじゃあ俺は、何をした? そしてこれから、何ができる!?
猫の世界から人間の世界へ戻りながら、椚山は自分に問いかけ続けた。
路地の向こうに見知った通りが見え始める。
多分この路地を抜ければ人間の世界に戻ることができるのだろう。そこは自分が生きていくべき世界だ。いや、胡桃にだって同じ世界で生きていく権利があったはずだ。
『猫カフェ 猫のしっぽ』
路地の入口に、最後の看板が立っていた。
椚山は看板の前で立ち止まり、後ろを振り返る。
ポリバケツのごみ箱。
転がった瓶や缶。
アスファルトにこびりついた得体のしれない染み。
そこは薄汚れた暗い路地で、猫カフェは、もうどこにも見えない。
椚山は再び前を向く。そして路地を抜け、光差す通りへと足を踏み出した。
了