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 枕もとで声が聞こえて、胡桃の意識は浮上した。

 ここはどこだろう?

意識は戻ったけれど、胡桃はしばらく寝たふりをすることにして、会話に聞き耳を立てた。

「椚山さんがいてくださって助かりましたよ」

 甲高い声は、さっきちらりと聞いた茶トラの声に似ている。

「いや、いいってことよ。ところで晩飯サービスって、本当だよな?」

 今度は低いガラガラ声。この声は、きっと大人の男の人に違いない。

「もちろんですよ。私たち猫がウソをつくとでも?」

 猫がしゃべっているところを確かめたくて、胡桃はうっすらと目を開ける。

「あ、起きた」

 白髪交じりの男の顔が、すぐ目の前にあった。

「ひゃ……!」

胡桃は男の眼光の鋭さにびっくりして、おもわず布団のなかに潜り込んだ。

「椚山さん、あなた見た目が怖いんですから、そんなに顔を近づけないでくださいよ。もしもし、大丈夫ですよ。この人こんな顔ですけど、そんなに悪い人じゃないんですから」

「そんなにってなんだよ! それじゃ、やっぱり俺が悪い奴みたいじゃないか?」

「ほほほほっ! 私はそこまでは言ってませんよ」

 ぽんぽんと言いあう声を聞いていたらなんだか楽しくなってきて、胡桃は布団からそっと顔を出した。

 すると、椚山と呼ばれた男の後ろで正座をしている、トラ猫と目が合った。胡桃は息を飲み、思わず椚山の袖にすがった。

 椚山は確かにいかめしい顔と体つきだが、正座をしておしゃべりをする猫より、胡桃にとってははるかに普通だったのだ。

「え!? 私ですか? 私が怖いんですかぁ?」

 胡桃の様子を見たトラ猫が、眼を真ん丸にする。

「あの……ご……ごめんね? ぼく、びっくりしちゃって」

「猫がお嫌いなわけでは?」

「ううん、ぼく、ねこちゃん大好きだよ!」

 胡桃の言葉に、トラ猫はひげをさわさわとひくつかせて目を細めた。

「そうでしょうそうでしょう! しるし(・・・)を持っているあなたが、猫嫌いなんてことはありませんものね。あ、申し遅れました。私エリーと申します」

「ぼくは、胡桃だよ」

「くるみさん。素敵なお名前です」

 エリーはうっとりと呟いたが、すぐに我に返り「お食事の用意をしてまいりますね」と言うと、そそくさと部屋を出ていってしまった。

 部屋の中がしんと静かになる。

 胡桃はあらためて周囲を見回した。

 八畳ほどの和室に布団が敷かれていて、胡桃はその上に寝ていた。床の間には呪文のようにのたくった文字の掛軸がかかっていて、その前にはきれいに活けられた花が飾られている。

「俺は椚山だ」

 急に声をかけられて、胡桃はびくっと体を揺らした。

「あの……胡桃です」

「さっき聞いた」

 椚山の答えはにべにもない。

「ところで胡桃は何年生だ?」

「小学四年生です」

 胡桃の答えを聞いた椚山の眉間にしわが寄った。

「四年? すいぶんと幼な……いや、ほそっこいじゃねえか。それに何ていうか……あちこちにあざがあるみたいだけど、それ、どうしたんだ?」

「え?……ええと、転んだんです」

 本当はままと浩二さんにたたかれたり、つねられたりしたのだけれど、誰かにあざの事を聞かれたら転んだと答えるように言われている。

「転んだだぁ!?」

 椚山の声が一段高くなった。

 太い手がにゅっと伸びてきて、胡桃のシャツをまくった。

「これも、転んだっていうのか?」

 あちこちにぽつりぽつりと青黒いものの浮かんだ腹があらわになる。

「ええ……あの、はい。ぼく、よく転ぶんです」

 胡桃はまくり上げられたシャツを掴んで下そうとしたが、椚山の手はびくともしない。どうやってごまかしたらいいのか慌てて考えているところに「お食事の用意が出来ましたよぉ!」というエリーの声がした。

「どうぞこちらへ」

 障子戸の向こうには長い廊下があった。廊下の一番奥の戸をエリーが開けると、夜の緑と土の匂いが、胡桃の鼻をくすぐる。少し先に洋館が建っていて、胡桃が今までいた屋敷と渡り廊下でつながっていた。

二人と一匹は、すのこをかたかたいわせながら廊下を渡る。

「この先が猫カフェ『猫のしっぽ』ですよ」

 さあどうぞと、エリーはステンドグラスの嵌め込まれた洒落た木製のドアを開いた。けれども入り口には目隠し暖簾がさがっていて、すぐに中の様子はわからない。暖簾には黄緑色の、草原のイラストが描かれていた。

その奥から漏れだす光は暖かそうで、漂う匂いは胡桃の胃袋を刺激した。

 胡桃は促されるままに暖簾をくぐる。

 黒く光る木目の床板。クリーム色の壁。開け放たれた窓。カウンターと、テーブル席。そして壁と同じ色の手すりが、くるりと円を描きながら二階へと伸びている。観葉植物の緑が、淡い色合いで統一された店内で、くっきりとした存在感を放っていた。胡桃が想像していたより、ずっと広い空間だ。

カウンターの上に置かれた小さな鉢には、赤い花が咲いている。その花があまりに可愛らしいものだから、胡桃の目は知らず知らずに吸い寄せられた。胡桃の知っている花とはずいぶん形が違う。ふわふわの、赤い猫じゃらしみたいな花だ。

「そいつが気に入ったのか? キャットテイル。猫のしっぽという花で、この店のシンボルらしいぞ」

 椚山が教えてくれた。

「シルバー様、お客様を連れてまいりましたよ」

 エリーの声につられて、胡桃がカウンターをのぞくと、そこには真っ白な猫をのせた小さな車いすがあった。白猫は、人間のような格好で車いすに座っている。

「シルバー様、こちらはくるみさんです。くるみさん、こちらにいらっしゃるのはこの猫の世界の長のシルバー様です」

 エリーは前足で車いすを押し、胡桃と椚山の前までシルバーを連れて来た。

「よお、シルバー、具合はどうだい?」

 シルバーはカウンターに腰を下ろした椚山をちろりと見上げる。

「寝たきりってやつさ。猫として、情けないねえ」

 胡桃が初めて聞いたシルバーの声は、息の音ばかりが多くて、掠れて聞き取りづらかった。

「なんだよなんだよ、まだ後継ぎがいないんだろう? 頑張らないとさあ」

 椚山は大きな体を丸めてシルバーの前にしゃがみ込んだ。

「私の跡継ぎはいないけれど、しるしを持った人間が現れたようだねえ」

 シルバーが言うと、エリーと椚山の視線が胡桃に向いた。

「ではシルバー様、私の勘は間違ってなかったのですね! くるみさんは資格を持った人間なんですね!」

 胡桃はどきりとした。資格があるなんて言われたのは、生まれて初めてのことだった。

「資格って、何の資格ですか?」

 とたずねると、エリーがずいっと胡桃の前に進み出た。

「いいですか、胡桃さん。この世界はですねえ。あわいの世界。その中でも猫たちの作った猫の国なのです。とはいっても、猫ならだれでも入れるわけじゃないんですよ。人間の世界で満足しているやつもいますからね。猫の中でも本物の! 猫としての! アイデンティティーに目覚めた猫たちが暮らしているのです」

 胡桃には『あいでんてぃてぃー』という言葉の意味はわからなかった。けれども、エリーがこの世界を大切にしているのだな、ということは、とてもよく理解ができた。

「人間も、この世界を感じる心を持った者なら入ることができます。ここにいる椚山さんとか、このお店『猫のしっぽ』にいらっしゃるお客さまたちです」

「ここは人間が来るお店なの?」

「そうですよ。それから、人間の中には、私たちとこの世界で一緒に暮らすことのできる方がいるのです。それがなんと! くるみさんというわけですね!」

「ぼく?」

「そうそう、おまえさんだよ」

 シルバーの真っ白い前足が、胡桃を指していた。

「だれでもかれでもこの世界に入れるわけじゃない。そんなことになったら、こっちの世界も人間界とおんなじになってしまうからね」

「でもぼく、しるしなんてありません」

「その右手の甲にあるじゃないか」

 シルバーに言われて、胡桃は自分の右手を目の前に掲げて眺めた。

「ほうら、その三日月形のあざだよ」

 たしかに三日月のような形の青黒いあざがある。でもそれは、きっと浩二さんかままにつねられてできたものに違いない。

 もっと特別な何かがあるのかと思った胡桃は、少しだけがっかりした。

「きっと、これはしるしなんかじゃありません」

「いいや。この私が言っているんだよ、くるみ。おまえさんがこの世界で暮らしたいと願うなら大歓迎さ。実は私たち猫はさ、おまえさんのような、この世界で一緒に暮らしてくれる人間がいると、とても助かるんだよ」

 そんなことを言われても、胡桃はどう答えたらよいのか、まったくわからなかった。困っている胡桃に代わって椚山が声をあげた。

「まあ、いいじゃねえか。晩飯はまだか? 匂いばかりかがされて、飢え死にしそうだ」

「はいはいわかっておりますとも」

 エリーが言い終わらないうちに、カウンターの奥から白いコック帽を頭にのせた三毛猫が、ワゴンを押してやってきた。ワゴンの上にはじゅうじゅうと音を立てるハンバーグが乗っている。

胡桃のお腹がきゅるるるるると鳴った。

 カウンターに椚山と並んで座り「いただきます」と手を合わせる。

 胡桃がハンバーグにフォークを入れると、中からとろりとチーズが流れ出た。

「うわあ、おいしそう!」

「本当にうまいんだよ、これが」

 椚山も、ナイフとフォークを手に取った。

 一口大に切ったハンバーグをフォークに刺す。ふうふうと息を吹きかけてから、塊を口の中へと放り込むと、しっかりとした肉の味が口いっぱいに広がった。

 胡桃の様子をじいっと見つめていた三毛猫が、にっこりとする。

 しばらく食べることに夢中になっていた胡桃だったが、お腹が落ち着くと窓の外に目を向けた。

 開け放たれていると思った窓にはちゃんと網戸がはまっていた。その向こうに、小さな家が点々と建っている様子が見える。水を張った田んぼに家々の光が映ってとてもきれいだ。奥の方には鬱蒼とした森があって、優しい月の光に照らされて輝いていた。街灯の下を数匹の猫が、可愛らしく二本足で立って歩いているのも見えた。

 まるで絵本の中に迷い込んでしまったような景色だった。

しばらく外を眺めて、胡桃はまた食事を再開した。ハンバーグだけでなく、籠に入っていたふわふわのパンも、添えられていたブルーベリーのジャムも、全部美味しかった。椚山はバターライスを頼んでいて、胡桃はそれも一口、味見をさせてもらった。

とても幸せな時間だったけれど、食べ終わったとたん、胡桃は自分がお仕置きをされている最中だったことを思い出した。

「どうしよう……」

 ままと浩二さんは、胡桃が勝手にどこかに行ってしまうとすごく怒るのだ。いなくなっていることを見つけられる前に、帰らなくちゃいけない。

 慌てて帰ろうとする胡桃を、椚山が送ってくれることになった。

 胡桃は猫カフェまでの道順を覚えていようと思ったのだけれど、道は何度も折れ曲がり、とても覚えていられそうになかった。

「帰り道? 覚えてもしょうがねえぞ。毎回違うんだ。そら、その看板に書かれている矢印を逆にたどれば知っている道へ出る」

 椚山が指さした先には『猫カフェ 猫のしっぽ』と書かれた看板が立っていた。

 歩いているうちにまばらだった民家が増えていく。エリーと出会った迷路のような住宅街を抜けてしばらくすると、胡桃は見覚えのある通りを歩いていることに気が付いた。

「ちゃんと玄関まで送る」と椚山が言い出したものだから、胡桃は断るのが大変だった。何度かの押し問答の後、絶対に一人で帰ると言い張る胡桃に椚山の方が根負けした。それでも椚山は名残惜しそうに、何度も胡桃を振り返りながら去って行った。

 椚山の後姿が見えなくなるまで見送って、胡桃は一つ深呼吸をする。

 ――家の鍵がかかったままで、誰も胡桃がいなくなっていたことに気がついていませんように。

祈りを込めて、そっと玄関のノブに手を伸ばした。


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