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胡桃は夜の住宅街を一人で歩いていた。
まん丸の月があまりに明るすぎるから、なるべく影を踏んで行く。
今日もままと浩二さんに怒られてしまった。
浩二さんというのはままのお友達で、少し前から一緒に暮らしている。浩二さんはなにしろ厳しいので、胡桃は怒られてばかりいる。
今日もげんこつでごつんとやられた。
すぐに謝らなければと思ったけれど、あんまり痛かったから言葉が出てこなかった。涙をこらえて浩二さんを見上げていたら「何だその目つきは」と言われた。
「まったく反抗的なんだから」
「自分が悪いってわかってるのか」
次々にぶつけられる言葉に身をすくめる。
どうしたら浩二さんに気に入ってもらえるのだろう。目つきが悪いと言われたから笑顔を作ろうとしたのに、今度はへらへらしていると怒られる。近所のおばさんから「感心な子ね」と褒められれば、いい気になっているとしかられる。
胡桃はもう、どうしたらいいのかわからなかった。
結局今夜も家を閉め出され、胡桃は玄関前のヤマボウシの下で膝を抱えた。夜は怖いけれど、そうやってじっとしていれば、いつかは家に入れてもらえる。今日は雨も降っていないし寒くもない。それに、ヤマボウシの白い花が胡桃を慰めてくれた。
ただその日は、ひっそりと物陰で静かにしているにはお月様が明るすぎた。胡桃は、月の投げかける白い光に誘われて、そろそろとヤマボウシの陰から這い出してみた。
「月の光って、こんなに明るいんだ」
アスファルトがくっきりと浮かび上がって見える。
たっぷりと月の光を浴びて歩いてみたかったけれど、もし近所のおばさんに見つかって「まあ、どうしたの? おばちゃんがお母さんに言ってあげるわ! もう大丈夫だからね!」なんて言われたりしたら、大変なことになる。おばさんに助けてもらって、ほんとうに大丈夫だったためしがない。
「まあ、ご迷惑をおかけしてすいませんでした、気を付けます」
笑顔でそんなことを言った後、ままはいつも、ものすごく不機嫌になる。
だから誰にも見つからないようにしないといけない。
うつむいて、アスファルトに映る月の光と影ばかりを見て歩いた。
どのくらい歩いただろうか。なんだか変な気分になってふと顔をあげると、胡桃は全然知らない景色の中にいた。
それほど遠くまで歩いたつもりはないのでびっくりしてしまう。
両側を木塀に囲まれた道。塀の向こうにはたくさん家があるのだけれど、人の気配がしない。窓から明かりは見えるのに、音が全く聞こえない。後ろを振り返ってみたが、似たような風景が続いているばかりだ。
「だれか……いませんかぁ?」
おそるおそる発した声はしんとした街並みに吸い込まれて消えた。
心細くなり、胡桃はきょろきょろと辺りを見回す。
ふっと足元に気配を感じて視線を落とすと、そこには大きくてまんまるな毛玉があった。その毛玉が急にこちらを振り返り胡桃を見上げた。二つの目玉がぴかりと光る。
「うわ!」
おばけ!
胡桃は思わず一歩後ろに飛びのいた。
「にゃぁっ」
かわいらしい声に、よく目を凝らしてみると、そこには丸々とした茶色のトラ猫が、お座りの姿勢でこちらを見上げていた。
「なんだ……」
緊張が解けて、胡桃はその場にへたり込んだ。
「おどろかさないでよ、ねこちゃんかあ」
ほっと一息ついたとき「何をそんなにびくびくしているんです?」と声が聞こえた。
「え?」
どこから声が聞こえたのだろう。あたりを見回しても、誰もいない。目の前のちゃとら以外は……。
「ここですよ、嫌ですねえ。こちらの世界は初めてですか?」
「え? え!?」
「何をそんなに驚いているのです?」
茶色のトラ猫はなんと二本足で立ち上がり、ずんずん胡桃に近づいてきた。
思わず駆けだそうとした胡桃は、すぐ後ろにあった電柱に激突して、そのまま意識を失ってしまった。