可愛い子には旅をさせよ
三章
暗い。
何も見えない。何も感じない。俺の身体は何処にある?
自分が見えない、分からない。そもそも俺は誰だっけ。
ああ。
草延匠悟だ。
俺は、山火事の中に突っ込んで焼け死んだのだ。愚かな話だった。無謀な作戦だった。結果的には無意味な話だった。でも、後悔はしていない。後悔のないように生きろと。姉貴にそう言われたから。
―――生きてないか。
無意味、だなんて事はない。俺が望んでその通りに行動したならそこにはきちんと意味がある。誰にも理解されない、してほしくもない意味が。意地にも似た頑固な覚悟が。
「…………きて」
声が聞こえる。きっとそれは、大切な人の声。俺を救ってくれた恩人の、ありのままを認めてくれる人の声。死んだ人間に何を呼びかけようというのか。それともまだ、死んでいない?
「起きて、弟君」
全方位を覆っていた暗闇が水の様に溶けていく。奥の方で明滅を始めた光が広がって、己の身体を認識出来る様になった。白い天井に斑点が幾つもついている。
「そろそろ目覚められよ」
その一言をきっかけに、視界以外の五感が急速に回復。天井の斑点は建物の内側で、どうやら自分はベッドに寝かされているらしい事がハッキリと知覚出来るようになった。指も足もまだ動く。目も耳も舌も正常だ。
何故?
「匠君!」
視界の外から朱莉の顔が割り込んできた。この至近距離で見る美少女の顔は男として振舞っていた期間を加味しても性本能的に緊張してしまう。だから彼女は朱斗として振舞っている間も至近距離でじゃれ合う事が無かった……いや、俺とだけはあったか。
もしかすると俺だけはバラされるまでもなく気付けたのだろうか。胸で男女を判別してるからだと言われたらあながち間違いでもないので強く言い返せないが、何処の世界に現実で男として入学する女子が居るのだ。しかも市立。先生もクラスメイトも誰も実情を知らないなんておかしいだろう。書類は偽造したのか。
気付ける訳が無い。制服の力は偉大だ。
「……泣いてるのか?」
「泣いてなんか、ないよお…………無事で…………良かった……!」
滂沱の涙が顔に滴り落ちる。泣きたいのは俺の方なのに、そんな顔をされたら弱い所を見せられないではないか。包帯塗れの腕を彼女の頭へ回すと、大人しく従って、胸の中でワンワンと泣き始めた。男女さておき高校生がそう泣くもんじゃない。何故か俺達は無事なのだから、それで良いではないか。
「弟君。生きてて良かったね」
「姉ちゃん?」
何かに固定されて動かしづらい首を何とか横に傾ける。姉貴はベッドの上に座り込んで、物憂げに俺を見つめていた。
「…………姉ちゃんが助けてくれたの?」
「まさか。偶然よ。あの時、たまたま山の中に居た人が裏道を使って救出してくれたんだよ。しかも無償で治療してくれるって言うから、つい頼っちゃった」
「良く見ないタイプの詐欺師じゃんか。駄目だよそんな人頼っちゃ」
「普通の病院に頼っても弟君やお友達を助けられないと思っただけ。まさか一か月ちょっとで治してくれるとは思わなかったけど」
―――一か月!?
携帯でカレンダーを見せてもらうと、確かに六月に入っている。自分の命よりも先に頭を過ったのは学校だ。俺達は救世人教と何ら関係がない。休みの口実を用意したにしても、どうやって姉貴は一か月も休みを取ったのだろう。
「……朱斗。お前も休んだのか?」
「ううううううう…………ぐす。私は、君程重くなかったから、五日前くらいから学校には行ってる、よ」
「誤差じゃないか」
「誤差なもんかッ。君が居ない間、どれだけ私が不安だったか…………うううううううう!」
渦中の人……という程でもないが、ゲンガー騒動における中心人物は紛れもなく彼女だ。何にせよ泣き止んでくれないと話が突然拗れたり腰を折られそうなので、まずは泣き止んでもらう必要がある。
…………まあ、共犯者だしな。
どちらかが辛いならどちらかが慰める。両者共生共依存。同じ罪を重ねる者として仲良くやっていこう。俺も辛かったら慰めてもらえばいい。『男』同士なら気兼ねないだろう?
朱莉を泣き止ませるのは非常に難しかったが、それでも時薬は万能で、一時間もすれば流石に涙が引っ込んだ。それでも名残惜しそうに俺の身体を掴んで離さない朱莉だったが、『姉ちゃんと話したい』と言うと、快く引き下がってくれた。引き際は弁えているらしい。
俺が眠っていた場所は個人で経営している病院だそうで、ここは大きな部屋でもなければ立派な病床でもない。テレビはないし看護師が居る訳でもない。何故か経営者本人が居ないのは気になったが、朱莉が待合室の方に出ていった事で、ここには俺と姉貴の二人だけが残っている。
何かやり取りをするよりも前に、姉貴が俺を抱き寄せた。包帯塗れの身体を、その実り豊かな身体に埋めて。耳元で吐息と共に呟いた。
「止められないお姉ちゃんで、ごめんね」
「…………気にしないでいいよ。俺は止まらなかったし」
「火に囲まれた感覚はどう? 流未に突き落とされた時と比べて怖かった?」
「苦しかった」
答えになってない、と姉貴は呆れる。その腕の力は決して緩まない。もう少し顔が下にあったら胸の中に顔が埋もれて喋れなかっただろう。呼吸が出来たかも怪しい。助かったと思えば姉に窒息死させられたとか…………いや、山火事で死ぬよりはマシか。
「弟君の事、何があっても守るって言ったのに、早速約束破っちゃったね」
「それも気にしないでくれよ。家を出る口実が必要だったんだから」
「口実なんかじゃない。私は本気だよ。あの時もこれからも。無条件に、大好きだよ。弟君」
「俺も…………」
好き。なんて。
家族愛の意味としては明らかだが、それでも恥ずかしくて言えない。年頃の高校生は感謝や好意を示せないらしい。朱莉に言う分には本気であれ冗談であれ誤魔化せるのに、心姫の前では茶化せない気がしている。理由は分からない。
姉貴の身体からようやく解放された。この暖かさが消えゆく感覚は少し寂しい。
「ん。もういいよ。そうそう、待合室の方でお友達が待ってるよ」
「いや、さっき出てったしそりゃそうだろ」
「もう一人の方だよ。弟君達に協力したいって」
ちょい短め。




