救済の不可視
人食いハウスという仰々しい名前とは裏腹にそこは単なる廃墟だった。誰も近寄らないという割には携帯で足元を照らすとたくさんの足跡が刻まれている。が、持ち主は姉貴だった。紛らわしい。誰も来ていない筈の廃墟にある足跡なんて怖いに決まっているだろうに!
「ん……弟君、ちょっと待って」
「何だ?」
「この足跡は私じゃないね」
彼女は俺と違って明かりに頼らず何かを見ている。俺には暗闇しか見えないが携帯で玄関近くの地面を照らすと、確かに彼女の足跡と比較すると小さく、雑に年齢を差し引いて二歳くらい年下のものだ。人によって成長度合いは異なるので正直当てになる推測ではないが、少なくとも俺や姉貴よりは小柄な人物がここに来た。
それはいい。誰も近寄らないというのは廃墟における売り文句みたいなもので、実際は少なくない人数が足を運んでいる。そういう事もあるらしいから。問題はその足跡が入ったっきり、出てきた痕跡が見当たらない事だ。
―――まだいるのか?
「先手を打たれるとは……思わないけどな。まだ中に居るかもしれないから気を付けてね」
「もし出会ったら逃げる感じか?」
「うーん。それはその時次第。殺さなきゃ殺されるって状況なら殺すけど、それ以外は逃げたいわね。何かが居るかもって事ならライト係任せたよ」
「合点承知の助」
「ネタが古すぎる。反省しなさい」
二人で敷居を跨ぐと、今にも崩れそうな軋みが廃墟全体に生者の来訪を伝えた。ここは心霊スポットではないそうだが、人ではない何かが潜んでないかと言われたら……否定はしきれない。ゲンガーではないが、潜伏しているだけかもしれないのだ。
二歩目を踏みしめて、遂に両脚の支えを古ぼけた床板に預けた。軋みは激しさを増し、足を持ち上げた次の瞬間にはもう底が抜けてしまうのではないだろうか。仮にも昔は住居だった癖に、今は人が住むには全てが脆すぎる。十年かそこらでここまで劣化してしまうものなのか。
『家は生き物』という言葉がある。家は人が手入れをしないと存外早く朽ちるから生き物と一緒という理屈だ。とはいえ、流石に老朽化しすぎである。
「こっち」
「転ぶなよ姉ちゃん」
「それもこっちの台詞。もっと悪条件の場所歩いたから平気よ」
何故俺達は自分の居場所を知らせながら歩かなければいけないのか。これが分からない。誰かが居るかもしれないという仮定は常にリスクを迫ってくる。二人で同じ場所を歩いていれば単純に足音が二倍だ。それを聞いてから回り込み、後ろから襲う事だって可能なのではないかと。
俺の心配は杞憂に終わった。自分達以外の足音はおろか、不審な物音すら聞こえないまま一番奥の部屋に辿り着いたのだ、文字通り心配するだけ損だった。
「……今思ったんだけど、教義について調べるのに何で廃墟に?」
「私の隠し場所だから」
「え?」
「友人に無理言って借りて来たものを家なんて危ない場所に置いていけないでしょ。犯罪者の持ち物とかって基本的に押収されるか、高値で何処かに流れるからね。ちょっとその場でジッとしてて」
そう言うと姉貴は足元の床板を触り始め、何処か一か所を外した。その中に躊躇いなく腕を突っ込むと、指にポリ袋を引っかけて中身を取り出した。
「それは?」
「その犯罪者が信条にしていた行動が書かれてる。曰く神からの啓示があってそれを本人が書き起こしたものだ。ここには……えー神々は自分達を追放した人間を許さない。神話は空想などではなく実在した時代であり、楽園を取り戻さんとする為に我は人に神を知らしめると書かれているね」
「イタいなあ」
「犯罪者にイタいなんて呑気なコメントだと思わない? せせら笑うのは自由だけど、相手には殺す選択肢があるんだよ」
俺の『他人事』コメントを咎めつつ姉貴は犯罪者の戯言を要約する。
「人を殺す時のルール……ここでは『器』の選定になる。この犯罪者は暫く神の啓示とやらが聞こえてたみたいで、その条件を聞いてただけみたい。器に選ばれた人間には『印』がつけられる。身体の一部分を刺せばいいみたい」
―――今の所、合っているが。
十年以上も前の犯罪者の教義を何故引き継いだのかが分からない。ゲンガーにそんな事をするメリットはないどころか、そもそも知る由だってないだろう。たまたま同じになったとも考えにくい。似通った宗教は大抵源流が同じものだからであって、犯罪者の戯言とカルト教祖の発言では源流もクソもない。
「意味聞く?」
「いや、興味ないし。その後は?」
「満月の日に、焚く」
「…………………………え?」
姉貴は用済みになった本をポリ袋に入れ直して再び床の底へ。何事も無かったように戻してから、自分の家みたいにその場で胡坐をかき始めた。
「うん。記憶通りだね。やっぱり救世人教は致命的におかしくなってる」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。焚くって……人をか?」
「あ、理屈が知りたい感じ?」
「どうでもいいッ。そうじゃなくて、焚くの? 人を? え? ホント?」
「うん」
魔女狩りじゃあるまいし、現代でそんな言葉を聞く事になるとは思わなかった。人間を焚くなんて冗談でも聞きたくない。焼死は一番苦しい死に方ともされている。厳密に火刑は身体を焼いて殺すよりもその前に窒息死で死ぬらしいがどちらにしてもその苦しさは一般人が常識で推し量れるものではない。
ナイフで刺されるとか、首を折られるとか。実は多くの人間がその痛みを完璧に再現出来る。何せ思い込みで火傷するような事だってあるくらいだ、人間の身体は俺達の想像以上に敏感で、繊細で、臆病で。『きっと本当の痛みはこんなものじゃない』と枷をかけてようやく痛みは妄想になる。ただし、窒息と火炙りのダブルパンチはそれ自体が現実離れしていて想像しようにも実感が湧かない。『きっと痛みはこんなものじゃない』、その通りだ。痛みなんて多分ない。全身が痛くなって、苦しくなって、何も感じなくなる。だから誰も実際を想像出来ない。俺のように、『他人事』でしか。
「もし……というより確定か。救世人教の方針がここに沿ってるなら安心していいよ」
「何を安心出来るのか言ってほしいんだけど」
「三日後のレイゲツは雨だから」
天気予報の画面を携帯で見せつつ姉は笑う。強張っていた身体から力が抜けていくようだった。それならどうやっても火炙りは無理か。つまり計画は頓挫……いや?
教祖は間違いなく実行するつもりだった。天気予報も見ていないなんて事は考えづらい。火を扱うなら何より気にしなければならない筈だ。教祖ゲンガーがとてつもない間抜けだったとしても信者の一人くらいは小耳に入れようとするだろう。
「姉ちゃん。雨の中で火を焚く方法ってあるの?」
「難しく考える必要はないよ。屋内でやればいいじゃん」
「……あ、え? それって……」
「そうだよ。使えると言っても火を使って盛大に焚き上げるだろうからやっぱり場所は選ぶ事になる。この付近なら選択肢は結構絞れると思うから、私達でも先手を取る事は十分に可能なんだ。弟君も気合い入れてよ~、友達を救いたいならここからが正念場だから」
「姉ちゃん、なんか楽しそうだな」
「『他人事だから』。……なーんてね。正気じゃオカルトライターなんてやってられないのよ。まして実体験を基にしてるならね」
もう一話出します。




