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第陸話・悪魔の紋章

 舌の形を模した滑り台で、一つ目の少年や猫又の少女らが楽しそうに遊んでいる。


 胡蝶は公園の角にある腰掛で本を読んでいた。それは、あの時都立図書館から借りてきた生きた本。すでに一度読み切った本ではあるが、もう一度読むと約束していたし、もうすぐ貸出期間が迫ってきていた。


 家で読んでも良かったのだが、今日はどうにも頭に霧がかかったようにもやもやしていた。ここのところ、妙な事が立て続けに起こっていたからかもしれない。外に出れば、少し気分も晴れるだろうと思っての事だった。


「どうだい、こちょう。おれ、やくにたっただろう?」


 読んでいた本が、自慢げに言った。読んでいる最中に声をかけられて、胡蝶は一瞬むっとしたが、すぐに笑顔になって本の背表紙を撫でてやった。


「ええ、そうね。あなたのおかげだわ」


「ほんとしても、おもしろいだろう? なっ?」


「ふふ、それはいつも言っているでしょう? あなたはとても面白いわよ」


 胡蝶の言葉に、本は満足したのか頁をぱらぱらと動かして、そしてまた胡蝶が読んでいたところまで戻ってきた。


 ふと、胡蝶はあの古本屋の少年が、生きた本の事を「醜悪な」と言っていた事を思い出した。胡蝶はあそこに行くまで、生きた本以外の本を知らなかった。どんな物語も参考書も、胡蝶の周りにある本は生きている。それが当然の事として生きてきた胡蝶には、あの少年の感覚はいまいち理解できないものだった。


 生きた本が醜悪であるというなら。死んだ本に至っては、白紙であるか真っ黒であるかのどちらかで、とても「読む」という行為ができる代物ではない。では、彼の思う「本」とは、一体どのようなものであるのだろう?


「うっ……!」


 突然、胡蝶は酷い目眩に襲われた。頭の中がぐるぐると回るような感覚。動いていないのに動いているような、脳が誤作動を起こしているような気分の悪さに、胡蝶は本を手から落として蹲った。


「こちょう? こちょう!?」


 手から落ちた本がこちらに呼びかけているが、応える事ができない。頭の中が真っ白になる。意識が遠のきそうになった、その時だった。


「胡蝶さん!」


 聞き馴染みのある菖蒲の声がして、胡蝶はなんとかそちらに目を向けた。菖蒲が走り寄ってきて、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。胡蝶は菖蒲の顔を見て一瞬安堵し、そしてそのまま意識を手放した。

 


 □□□



 目を覚ますと、そこは胡蝶の部屋ではなかった。窓にはステンドグラスの装飾が嵌め込まれた、美しい白い壁の洋室であった。


「良かった、目が覚めましたのね」


 胡蝶が横になっていた寝台の横で、菖蒲が心配そうにこちらを覗き込んでいた。何度か訪れた事のある菖蒲の部屋であるとすぐにわかった。自分は公園で倒れてしまい、ここに運び込まれたらしい。


「ごめんなさい、菖蒲さん……ありがとうございます」


「そんな、御礼なんて。でも、一体どうなさったの?」


「わからないんです……今日は少し調子が悪かったのですけれども、突然目眩が……」


「そう……あら? 胡蝶さん、これは……?」


 そう言って、菖蒲は胡蝶の掌を覗き込んでいた。菖蒲に促されて胡蝶も自分の掌を見てみると、指先になんとも言えない違和感を感じた。目を凝らしてよく見ると、指の指紋が三重になっている。目眩は治まっていたので、視覚の異常というわけでもなさそうだ。


「なに、これ……」


 胡蝶はえもいえぬ戦慄を感じた。同時に、あの古本屋での事を思い出す。あの少年は、二年の寿命を引き換えにすると言っていた。もしや、自分の寿命が縮まった事で、体に異変が現れ始めているのではないか。


 すると、神妙な面持ちで掌を覗き込んでいた菖蒲が、その手をぎゅっと握りしめた。


「胡蝶さん……私、心配なの。胡蝶さんはあまり竜神様の事をお話ししたがらないけど……でも、私には話してくださっても構わないのよ?」


「えっ」


 そう言われて、思わず菖蒲の方に目線を向けた。菖蒲の心配そうに揺れる瞳と目があって、胡蝶は妙な罪悪感に襲われた。


「何か、あったのではないの? 竜神様の事に関わるような、何かが……」


 流石に胡蝶の事をよく見ているだけあって、菖蒲の感は鋭いものがあった。しかしやはり、死んだ本の事、夢で会う竜神の事などは、どのように説明すればいいのか胡蝶にはわからない。


「心配をかけてしまって御免なさい……私は大丈夫ですわ、菖蒲さん」


 だから、心配をかけているとわかりつつも、胡蝶はそう言うことしか出来なかった。菖蒲は更に何か言葉を続けようとしたが、その言葉を飲み込んで小さく溜息をついた。


「もう……。でも、何かあったらすぐにお話しして下さいましね? そのロザリオも、できれば常に身につけていて下さいませ。私、そのロザリオに貴女の幸せを願っておりますの。だから……」


「ええ……ありがとうございます。菖蒲さん」



 □□□



「これは、『死んだ本』の影響ではありませんよ」


 胡蝶は、再び『月之裏側』に訪れて透明と対峙していた。胡蝶の掌を一瞥した透明はしかし、胡蝶の予想に反する事を口にした。


「そう、なんですか? 寿命を代償にすると言っていたから、私」


「ええ、確かに胡蝶様の寿命を『死んだ本』の代償としていただきました。しかしですね、僕が確認する限りでは、貴女の残り寿命はまだ余裕があるようです。今すぐどうこうなるという程ではない」


 それを聞いて、胡蝶は酷く安心した。やはり寿命を代償にした事は、彼女の中でも不安要素のひとつであったからだ。しかし、そんな胡蝶の安堵をよそに、透明は眉根を寄せて難しそうな表情を見せていた。


「これは……妙だな。流行病の類……いや、なんだこれは……?」


 透明の言葉に、胡蝶は再び不安に煽られた。周囲で流行病にかかっていたものなど居ただろうか。しかし、そんな胡蝶をよそに透明は頭を抱えるように悩み続けているようだった。


「御兄様」


 隣でお茶を飲んでいた粉雪が、そんな兄の姿を見て声をかける。それは、少々兄を諌めるような口調にも聞こえた。


「……わかっているよ、粉雪。降参だ」


 透明は何かを諦めたような顔で、目線をこちらに戻した。


「こういう事に詳しい奴が、近くにいます。甚だ不本意ですが、其奴(そいつ)に聞いてみましょう」

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