第伍話・鱗粉の夢
月島透明は、金の月があまり好きではない。
淡い空の色に溶ける昼の銀の月と違い、その自己主張の強さは透明の美学に反するものだった。金の月も銀の月も、大正大君が産んだものに違いはない。だが、金の月は醜悪なこの世界そのもののように思える。
だが、その金の月を見上げる自分の異母妹は、粉雪だけはこの世界で唯一の美しいものだと透明は思っている。まるで涙のような水色の睫毛が震える様は、見ていて飽きるということがない。
何を考えているのか、何を思っているのか、それすら判然としない瞳の見つめる先が金の月であることが、単純に透明は気に入らないのかもしれない。要は、自分は嫉妬しているのだ。あの忌々しい金の月に。
だから、粉雪が座る窓辺の寝椅子すら透明には妬ましかった。彼女の体を支える血赤の尾籠度になりたいとすら思う。しかし、そんな羨望をぐっと堪えて、透明は粉雪に近付いた。紅い葡萄酒のような液体が入った洋杯を手にして。
「粉雪」
透明の呼び掛けに反応して、彼女は兄の方へ振り向いた。そんな何気ない仕草すら透明には愛おしいと思えた。自分の呼び掛けが今、彼女の行動を変えたのだ。自分は今、あの金の月よりも彼女に関心を持って貰えたのだ。
「さあ、粉雪。これを飲んで。大丈夫、ただのいつもの儀式だよ。何も怖がることはない」
そういって、透明は洋杯を粉雪に手渡した。それは胡蝶から得た二年分の寿命。それを飲み干すことで、粉雪はまた少し永遠へと近付く。
そう。永遠。僕はこの目の前の最愛の人と、永遠に兄妹遊戯を続けていたいのだ。近過ぎるからこそ一番遠いこの距離で、彼女を愛でていたいのだ。この世界が尽きるまで、いやこの世界が尽きた後も。
粉雪は、しばらく目の前の洋杯を眺めた後、なんの疑いもなくそれに口をつけた。彼女が透明に逆らう事などない。それは全面的な透明に対する信頼、というよりは、あるがままをただ受け入れ主体性を放棄しているようにも見える。だが、その瞬間が透明には堪らなかった。自分の若い情動が刺激されるほどに興奮する瞬間でもあった。
目の前で、粉雪はその紅い液体を飲み干した。それを見て、透明は酷く目を細めて微笑んだ。
「そう、そうだよ。いい子だね、粉雪」
そう呟いて、透明は粉雪の柔らかい髪を撫で梳いた。口にした液体の赤さで、粉雪の唇が色づいている。それを見て透明はぞくりとするものを感じた。
窓越しに、隣の店の女主人が真珠煙管を吸いながらこちらに目線を向けているのが見えた。まるで、透明を諫めているようにも見える。透明は鼻で笑って、窓のカーテンを閉めた。
粉雪が僅かに、非難するような目線を透明に向けたが、きっと透明には届かなったのだろう。粉雪は小さく溜息をついて、ハンカチーフで口元を拭うだけだった。
□□□
見た事もない景色だった。
そこは、セピア色の風景が続く悪夢都市と違って、色鮮やかな世界だった。胡蝶は周囲を見回して、その鮮やかさに目眩を覚えた。四角い箱のような建物、道路を走るのは洗練された形の無機質な車、空はまるであの古本屋で見た少女の髪の色のように蒼く、白い雲が流れている。その中で一際強く輝いているのは、あれは銀の月には見えない。胡蝶は、どうやら自分が此岸世界にいるのだと直感で悟った。
建物の窓ガラスに写り込んだ自分の姿を見て胡蝶は驚いた。胡蝶の姿は一羽の揚羽蝶になっていたからだ。ひらひらと飛んでいた胡蝶は、近くの植え込みまで行ってそこに止まり、羽を休めた。
その時、胡蝶は自分が蝶になっている事よりも驚く事になった。目の前の建物のドアが自動で開き、中から竜神が現れたからだ。
胡蝶は声を出そうとしたが、声帯のない虫の体では声を出しようもない。胡蝶はなんとか、竜神の近くまで飛んで行った。竜神は草臥れたシャツにデニムパンツ、その上から店の制服と思われるエプロンをつけている。彼は大きなビニールの袋を抱えて、それをゴミ集積所まで持って行こうとしているところだった。
「こら、室井! お前何をやってるんだ!」
竜神の後ろから男の声がした。竜神と同じエプロンをつけているから、同じ店の店員か、上司なのかもしれない。
「何って、こちらの袋は燃えるゴミでしたよね……」
「お前、何度同じことを言わせるんだ! その袋は廃棄用だ! ゴミに出すんじゃなくて本社が回収するんだよ、バックヤードの方だ!!」
「えっ、あっ、すみません……」
「ったく。コンビニのレジも打てねえ、教えた事も満足にできねえ。お前みてえな役立たず、見た事ねえよ」
そういって舌打ちすると、男は竜神が手にしていた袋をひったくって店の中に戻って行った。
「……役立たず、かぁ」
そんな竜神の呟きが風に乗って聞こえてきて、胡蝶は必死に慰めようとした。だが、ままならない。せめての慰めにと、胡蝶は竜神の肩に止まった。
「あっ……」
どうやら、竜神は自分の肩に止まった蝶に気付いたらしい。少し羽をはためかせると、竜神は目に涙を滲ませながらも微笑んで見せた。
「お前、どこから来たんだい? 綺麗な羽だね……まるで胡蝶さんのようだ」
「竜神様……!」
自分の声で目を覚ますと、そこは元の胡蝶の部屋だった。窓から明るい日差しが差し込んではいるが、いつものセピア色の風景で、胡蝶は一瞬、今のこの自分の状況が夢ではないかと錯覚していた。それほどに実感を持った生々しい夢だった。
夢? いや、おそらくは違う。あれはきっと本当の此岸世界で、あそこにいたのは本物の竜神であったに違いない。竜神の肩の温もりが、胡蝶の掌に残っていた。それだけで、胡蝶は竜神の確かな存在を確信していた。
胡蝶の傍らでは、死んだ本が胡蝶を見守るように静かに横たわっていた。
□□□
「胡蝶さん、なんだか最近はとても表情が明るくなられたわ」
「そう? ……そうかしら」
女学校からの帰り道、胡蝶は菖蒲と共に帰路についていた。竜神がいなくなってからというもの、菖蒲はいつもこうして、遠回りになるにも関わらず胡蝶と共に歩いてくれていた。それが、胡蝶にはとても嬉しかった。
あれから毎晩、胡蝶は此岸世界の竜神の夢を見ていた。慣れない此岸世界での生活に、竜神は悩み、苦しみ、時には涙を溢す。それでも、夢の中の胡蝶の姿である蝶を見つけると、まるで心癒されるかのように微笑んでくれた。胡蝶にはそれがとても嬉しかったし、竜神の癒しになっている事がひいては胡蝶の心の慰めにもなっていた。
だから、菖蒲のいう通りに表情が明るくなっているとすれば、あの夢のおかげなのだろうと思う。虫の姿なので、直接竜神の手助けができない事はもどかしいが、竜神の姿を毎日見れるだけでも胡蝶の心持ちは以前と違っていた。
しかし、事の経緯や、死んだ本の事はうまく菖蒲に説明できる自信がない。だから、胡蝶はなんとなく、曖昧に言葉を濁した。
「……良い事よ。胡蝶さんが明るくされているだけでも、私の気持ちも救われるわ」
「まあ、菖蒲さんたら。大袈裟ですわ」
「いいえ、本当よ」
菖蒲の言葉が胸に染みた。本当に、友人に恵まれていると胡蝶は思う。菖蒲がいなければ、竜神のいない生活を乗り越える事さえできなかっただろう。
菖蒲は、自分の首から何かを取り外した。それは、黒縞瑪瑙と銀で出来たロザリオだった。菖蒲はそれを胡蝶の首に通して、にこりと笑ってみせた。
「これは?」
「本当は、エスのお姉様が、心に決めた『妹君』に渡すものらしいけど」
「え、えっ?」
胡蝶は動揺した。エスとは、女学生同士の親密な間柄の事だ。それは時に、恋愛感情にも近いものであったりする。
「いやだ、誤解なさらないで。……でもそうね。そのぐらい貴女の事を大切に思っている、と理解していただいて構わないわ」
そう言って柔らかく微笑む菖蒲に、胡蝶はしばし見惚れていた。
「胡蝶さんの仕合わせを、私、心から祈っているわ」
涙が出そうだった。胡蝶は思わず、菖蒲に抱きついた。勢いよく抱きついてきた胡蝶を、菖蒲はあやすようにとんとんと背中をたたいた。
四季咲きの千年桜が、風に吹かれてその花弁を降り注ぐ。それはとても清艶な、乙女たちの情景だった。