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第肆話・紅い契約と処女(おとめ)の記憶

「さて……。ここに来られたということは、胡蝶様は『死んだ本』の噂をご存知である。つまり、叶えたい願いがある、という事ですね?」


 透明の言葉に、胡蝶は目を見開いた。


「あの噂は本当なの? 『死んだ本』は持ち主の願いを叶えるという……」


 問いかけられた透明は、鉱石茶が入った硝子の碗をカウンタァに戻して、先ほど胡蝶に見せた本を手に取った。


「本自体に、そんな力はありませんよ。ここにある本たちは読者に忘れ去られた、或いは自ら読まれることを放棄した、無気力な存在です」


 透明の言葉に、胡蝶の瞳はあからさまな落胆の色を滲ませる。


 やはり、噂は噂でしかないのだ。本だって、生きているのだから死ぬこともあるだろう。そんな本がここに集められているというだけであって、そんな都合の良い話があるわけがない。


 しかし、胡蝶は気付いていなかった。失意に肩を落とす自分を見て、透明が唇の端を吊り上げていたことを。


「本だけでは、ね」


 透明は本を携えたまま、カウンタァから出て胡蝶の前に立つ。制服のマントが翻り、竜神ほどではないが思いの外高い身長の少年が目の前に立って、胡蝶はどきりとした。透明は手にしていた静かな本を、胡蝶の手を取りその手に持たせる。自分もその本に手を重ねたまま、胡蝶の耳元に唇を寄せて囁いた。


「僕との契約が必要です。この本の対価は寿命二年分。貴女にそれが、支払えますか?」


「……どういうこと?」


「契約を以てその本の所有者となれば、本は貴女の願いを叶えるでしょう」


 そう言って、透明はにこりと微笑んでみせた。


 胡蝶は透明の言葉を頭の中で反芻しながら、持たされた「死んだ本」をぎゅっと握り締める。私の願い、それはただひとつしかない。


「竜神様……竜神様に会いたい。夢でも構わない、会いたい……!」


「貴女の命に、変えてでも?」


「勿論!」


「ふむ」


 透明はそう呟くと、一旦胡蝶の側から離れた。そしてカウンタァから百合紋の装飾が施された小刀を手に取ると、鞘を抜いて胡蝶の左手を取った。


「胡蝶様、失礼いたします」


「いつっ……!」


 透明は手慣れた所作で胡蝶の薬指の爪の下を切る。そして自分の指先も同様に切ると、瑪瑙の小皿を取り出してそこに自らの血を落とした。


「胡蝶様の血もここに」


 透明に促されて、胡蝶は薬指を皿の上に翳した。傷口からわずかに滲む血が、指を伝って皿の上に滴り落ちた。


 片方の手で抱えていた本を、透明がそっと手に取って表紙を開く。何も書かれていない空白の中表紙。透明はその中表紙を胡蝶に向けて差し出した。


「血判をお願い致します。それでこの『死んだ本』は、胡蝶様の願望へと貴女を近付けるでしょう。……二年の寿命と引き換えに」


胡蝶は思わずごくりと喉を鳴らした。勿論、覚悟の上ではある。しかし、抗い難い何かを透明の声に感じた。少し離れたところから粉雪の虚な視線を感じる。胡蝶は血の入った瑪瑙の小皿に親指の腹を浸すと、その指を『死んだ本』の真っ白な中表紙に押し付けた。


 ざわりと、まるで寒気のようなものを感じて胡蝶は思わず指を離した。中表紙に押された真っ赤な拇印は、まるで紙に吸い込まれていくように消えていく。何が起こったのかと胡蝶が疑問に思う間もなく、その中表紙は瞬く間に黒く染め上がった。まるで黒いインクを本の上に溢してしまったかのように。


「契約完了です」


 そう言うと、透明はにこりと微笑んでその中表紙を破り取った。破り取られた次の(ペヱジ)も黒い。その次も、その次の次も、まるで死人の肌のように真っ白だった本は、全ての(ペヱジ)が漆黒に変わっていた。


「これでこの本は胡蝶様のものです。どうぞお持ち帰り下さい。どのような扱いをなさろうと胡蝶様の自由です」


「えっ……こ、これだけ?」


 胡蝶はまるで拍子抜けしたように透明に問い掛ける。粉雪がてきぱきと胡蝶の指に絆創膏を貼っているのも気に留めていなかった。普通の『生きた本』であれば、もっと様々な説明をされる筈だからだ。


「その本は『死んで』おりますからね。飼育環境も関係ありませんし、食事も必要といたしません。ただ……」


「ただ?」


 聞き返す胡蝶に対し、透明はここまで見せた事も無いような悪戯っぽい笑みを胡蝶に向けた。


「ご就寝の際には、その本と共寝をいたしますと『良い事』があるやもしれませんよ?」



 □□□



 まるで平安時代の寝殿造を彷彿とさせる広大な平家の一室は、あまりにも広く前時代的で、胡蝶のような十七歳の少女には些か大仰であるといつも彼女は思っている。


 胡蝶の家、鈴木家は古くから出版事業を営んでおり、現在は『鈴ノ片脚出版』として名高く、このジパングでは大きな家のひとつだった。まるでその権威を誇示するかのように広くて雅やかな鈴木家は、しかし何処か、寂しさを感じないでもない。その寂しさを埋めるように本を集めているのだろうかと、胡蝶はふとそう思った。


 寝所の側には三日月型の窓が開いていて、濃藍色の夜空に金の月(ゴルーナ)が浮かんでいる。昼間に浮かぶ銀の月(プラーナ)とは違って金色に輝くその月の色は、まるで竜神の前髪の色の様だ。


 胡蝶は枕元に置いていた『死んだ本』を手に取り、その胸に抱きしめた。『生きた本』と違って本当に静かだった。この本は『生前』にどんな内容だったのだろうか、と、胡蝶は取り止めもなくそんな事を思った。


 ふと、外からパシャリと水の音が聞こえてきた。思わず胡蝶は窓を覗き込み、庭の池に目を向けた。


 胡蝶は息を飲んだ。そこに、澄んだ淡色の竜の姿を見たような気がしたからだ。


「竜神様……!」


 しかしそれは、ただ池の人面鯉が跳ねただけだった。胡蝶は胸の奥から何かがこみ上げて来るような感覚に襲われて、気付けば涙を流していた。その涙は、胸元にしっかり抱きしめていた『死んだ本』に吸い込まれていった。


 そう、あの時。あの時から、私は竜神様をお慕いしていた。




 

『アイスクリンを頼みましょうか』


 初めて胡蝶が竜神から声をかけられたのは、鈴ノ片脚出版と室井コトノハ鉄鋼グループの合同晩餐会での事だった。それは実質、胡蝶と竜神が許嫁と決められた事のお披露目という意味合いを兼ねていた。


 ヴィヴァルディの曲で育てたカトブレパスのローストやチーズ、銀河鉄道の夜で香り付けしたジズのフォアグラ、黒蝶真珠を添えた鸞鳥の卵スープなど、沢山の豪勢な料理を前にしても、胡蝶はあまり食が進まず、蛍石の氷水ばかりを口にしていた。まるでそんな胡蝶の様子をみていたかのように、竜神は声をかけてきたのだ。


『えっ……』


『失礼。先ほどから、食が進んでいないように見えましたので……』


 以前から決められていた事とはいえ、多感な年頃の少女が自分の意思にも関わらず許嫁を決められて、気分がいいものではない。胡蝶の手が止まっていたのはそんな理由からだった。しかも目の前の相手は無口で、何を話したらいいのかもわからない。そんな相手からの指摘に、胡蝶は少々むっとしていた。


『竜神様は、この婚約に抵抗がないのですか?』


『……』


 胡蝶の問い掛けに、竜神は困ったように視線を彷徨わせるばかりだった。


 あれは竜神なりの思いやりであったのだと今ならわかるのだが、とにかくその時の胡蝶は虫の居所が良くなかったのだ。結局その後、気を利かせた周囲が胡蝶の屋敷の庭園へと二人を誘ったが、そこまでの道すがらは二人とも無言で歩いた。胡蝶は小さく溜息をついて、流行りのクロッシェ帽を目深に被った。


 寝殿造の胡蝶の屋敷には、池にはり出ている釣殿がある。それを見た竜神は、それまでと打って変わってそわそわし始めた。


『……何か?』


『あ、いや……あの釣殿は、実際に釣りをしても……?』


 言葉は控えめだったが、竜神の目はこれまでになく輝いているのがわかった。胡蝶の父も釣りをしているので、竜神が何を求めているのかはなんとなくわかる。この釣殿はまさに父が趣味で作ったようなもので、父がいつも釣り仲間を集めては道楽に興じていたのだ。


『構わないはずです。確か、父が道具も釣殿に用意していました……案内しましょうか?』


 胡蝶の言葉に、竜神は初めての笑顔を見せた。胡蝶はその屈託のない笑顔に、それまでの毒気をすっかり抜かれてしまった。


 釣殿に案内した竜神は、いそいそと池に釣り糸を垂らし始めた。池を泳ぐ人面鯉が何事かと寄ってきたが、流石に彼らは聡く、釣り餌だと気付くとがっかりしたように遠くへ行ってしまった。


 胡蝶は自室から本を一冊連れてきて、竜神の隣に座り込んだ。そうして釣り糸の先をじっと見つめる竜神の横顔をちらりと見ると、自分も本を開いて読書を始めた。


『なんだよ、こちょう。こいつがこないだはなしてたいいなづけってやつか?』


『……ちょっと!もう!』


 突然揶揄うように声を上げた本に、胡蝶は吃驚して声を荒げる。その声に驚いた竜神は、目線を胡蝶に向けて呆気に取られたような顔をした。本の声が竜神に聞かれた事に、胡蝶は思わず顔を赤らめた。


『すみません……』


『いえ……』


 胡蝶はなんとも言えず気まずい気分になった。小声で本に「今は静かにしていて頂戴」と囁いて、背表紙を指で撫でた。隣で微かに、竜神が笑ったような気がして、胡蝶は尚更居た堪れなかった。


 そのまましばらく、二人で静かな時間を共有していた。それは、思いの外気まずいものではなく、かえって快い時間だと感じている自分に、胡蝶は少し不思議なものを感じていた。


『先ほどの、問いの答えですが』


 突然竜神がそう呟いたので、胡蝶は(ペヱジ)を捲る手を止めた。何のことかと思案して、先ほど自分が婚約の是非について問いかけたことを思い出した。


『抵抗がなかったかと言えば嘘になります。ただ、俺は……』


 竜神の次の言葉を待っていたその時、唐突な突風が吹いた。咄嗟にスカァトを押さえたが、頭に気が回っていなかった。胡蝶が被っていたクロッシェ帽は空高く舞い上がり、やがてゆっくりと池の水面に着地して、じわじわと水の中に沈んでいってしまった。


『あ……』


『いけない、なんて事だ』


 そう言って竜神が立ち上がる。帽子を取ろうとしているのを察して、胡蝶は慌ててそれを止めようとした。


『いけません、ここの池は真ん中の方が底無しになっていて……』


 胡蝶が声を上げたその刹那、目の前で竜神はその姿を竜に変えた。きらきらと輝く淡い色の鱗が美しく、胡蝶は目を見張る。そのまま、竜は池の中へ入っていき、しばらく出てこなかった。


 やがて、再び水から上がっていて胡蝶の目の前に現れた竜は、その手に胡蝶の帽子を持っていた。呆然としている胡蝶の目の前で、竜は再び少年の姿へと戻っていた。


 竜神は、手にしていた帽子を握り締めて、微かに震えているように見えた。


『あ、ありがとうございます』


『すみません……貴女の帽子が濡れてしまった』


『そんな、竜神様のせいでは』


 しかし、竜神は胡蝶の帽子を握り締めて離さない。そのまま、じっと胡蝶の方を見つめていた。胡蝶はその漆黒の瞳に射抜かれて、息を飲んだ。


『俺は、許嫁の相手が貴女で良かったと、先ほどそう思いました……貴女を一目見た時に』


 再び、風が吹く。頬を撫でる風は少し冷たく感じた。冷やかすような人面鯉たちの口笛も耳に入らなかった。胡蝶はこの時から、恋に落ちていたのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 不思議な本とわけありの人たち、この構図で進んでいくのだと思うと、少しずつ世界観が見えてきそうでいいですね。 [気になる点] 二年の寿命が無い人は契約する前にわかるのだろうか? [一言] カ…
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