第参話・言葉仕掛けの兄妹
藤の色を思わせる薄紫の空は曇り、銀の月が薄く顔を覗かせている。
シンジュク区のカブキ町はこの悪夢都市の中でも如何わしい空気を放つ歓楽街であった。胡蝶のような楚々とした女学生が歩くにはそぐわない街である。
しかし、胡蝶は意を決し、あまり周囲を見ないようにして足早にそのカブキ町を進んでいた。時折声をかけてくる客引きにも目を合わせないようにして通り過ぎ、手元にある走り書きしたような地図を頼りに細い路地へ入っていく。やがて人も少なくなり、薄暗いセピア色の建物が立ち並ぶカブキ町の外れの方まで胡蝶は足を運んでいた。
あたりを見回す。目印は『弔ビル』と、失楽園カフヱ『EDEN』。左奥に掠れた文字で『弔』と書いてあるビルヂングを見つけると、胡蝶は息を飲んでそちらの方へ足を進める。カフヱの前を通り過ぎざまに、妙な色気を纏う女給が揶揄うような目線を胡蝶に送っていた。
「……あった」
胡蝶はその古本屋の前で足を止めた。看板には『月之裏側』と書かれ、窓に嵌め込まれたステンドグラスが妖しく空の藤色を写し込んでいる。黒いレンガの壁は重苦しさを感じさせ、概ねセピア色で統一された悪夢都市の建物の中でも異彩を放っていた。
都立図書館から借りたあの本が言うことには、この古本屋では『死んだ本』を扱っているという。その、『死んだ本』というのがどういうものなのか、胡蝶には全く想像がつかない。胡蝶は不安げに背中の翅を震わせたが、意を決してドアノブに手をかけようとした。その瞬間だった。
「いらっしゃいませ」
不意にそのドアが開き、胡蝶は驚きで声が出そうになったのをすんでのところで抑え込んだ。息を飲んで目線をドアの向こうに向けると、そこには白い洋装姿の少女が立っていた。年の頃は胡蝶と同じぐらいか、少し下だろうか。当世風断髪の髪はあまり見かけない水色で、その瞳も同じ色をしている。ビスクドォルのように肌は白く顔立ちも整っていて、浮世離れしているほどだ。少女は胡蝶と目を合わせると、深々と頭を下げた。
「御兄様が奥でお待ちです。此方へどうぞ」
「えっ……」
胡蝶が問いかけようとする間も無く、少女は踵を返し奥へと歩き始めた。慌てて胡蝶はドアを潜り、少女の後を追う。歩きながら胡蝶は周囲に目を向けた。立ち並ぶ本棚の本たちは微動だにせず、ひんやりとした空気を纏って整然とただ並んでいる。本たちの騒めきで賑やかな図書館や普通の本屋とはまるで違う。本棚の合間からは、壁に飾られた奇妙な絵や大きな鏡がいくつも目に入った。
「御兄様、御客様をお連れしました」
そう言って、目の前の少女が立ち止まった。赤黒く木目を光らせるレジカウンタァの奥には、安楽椅子に座った少年が制帽を目深に被り手を組んでいた。着ている制服は竜神と同じ処聖學院のものに見える。『御兄様』と声をかけられた少年は、少女の声に帽子を直して目線をこちらに向けると、柔らかく微笑んでみせた。
「嗚呼。有難う、粉雪」
慈愛に満ちたその笑顔に、粉雪と呼ばれた少女はスカァトを摘み軽く持ち上げて、小さく頭を下げて見せた。そして胡蝶に小さく会釈すると、音もなく店の奥へと消えていった。
「さて……鈴木胡蝶様、でいらっしゃいますね?」
目の前の少年は、胡蝶の方に向かい小さく微笑んだ。それはつい今しがた粉雪に見せた笑顔とは違い、目元は笑っていない。店に立つ為の営業用の笑顔といったところだろうか。その体内の血が写り込んだような瞳に見据えられると、胡蝶は何か居心地の悪いものを感じた。髪の色は透き通るような銀髪で、彼もまた顔立ちの整った中性的な美少年だった。
「何故、名前を? まるで、私が来る事がわかっていたように……」
「ええ、わかっていましたとも。行方不明になった室井コトノハ鉄鋼グループの御曹司、室井竜神様の許嫁。……この度は、さぞかしお辛い思いをされていたでしょう。お察しします」
少年は、目を細めて同情するような顔色を見せた。その表情は心からのものなのか、表面だけのものなのか、胡蝶には見分けがつかない。
「ようこそ、『月之裏側』へ。僕は店主の月島透明と申します。ここは、僕が趣味の一貫で始めた古本屋でしてね。僕の気に入った本しか置いて居りません。例えば……」
「死んだ本」
透明と名乗った少年の語りに水を差すように、胡蝶はそう呟いた。透明は口を止めて、胡蝶の方にその紅い瞳を向ける。
「死んだ本があると聞いたわ」
「……ええ、そうですとも。ここに或る本は、みな、『死んで』居ります」
そう言って、透明は手元にあった本を一冊、胡蝶に見えるようにはらりと開いて見せた。
「えっ」
胡蝶はその本を見て口元を押さえた。その本の中は何も書かれてはいない。白紙の頁がただ続いているだけだった。
「本にとっては、インクとは血液のようなものなのでしょう。死ぬと、このように真っ白になって仕舞います。美しいとは思いませんか? 以前は多様な物語を綴っていたであろう其の容れ物は、今は唯その自己愛の名残を残すのみ。例えば壁に掛けている絵画も、同じようなものですよ。僕は世に蔓延る『生きた本』たちの醜悪さがどうにも馴染めませんでね。ここにある本たちのような虚心坦懐さに心惹かれるのです。中でも、いっとう好きなものが……」
「御兄様、お茶をお持ちしました」
一度奥に下がった粉雪が、盆に硝子の茶器を載せて現れた。
「嗚呼、粉雪……」
途端に透明の目が、愛しいものに対するそれに豹変する。それで、恐らく彼が『いっとう好きなもの』が彼女であるのだろうと想像がついた。
ふわりと茉莉花の香りが鼻腔を擽った。カウンタァの手前に置いてある骨董品の脇机に白瑠璃の碗を置いて、粉雪が硝子の急須から茶を注いでいた。急須の中には蓮華座のように広がる茶葉の上に大輪の白い牡丹が揺蕩っている。その工芸茶の見目麗しさは胡蝶の目を釘付けにした。
「どうぞ、胡蝶様」
差し出された茶碗の下に、小さな青い石が沈んでいた。瑠璃の入った鉱石茶だと胡蝶は気付いた。
「ああ、これは『極楽堂』の瑠璃だね。あいつのところのは、質は確かだ」
そう言って、透明は硝子の碗に口をつけた。胡蝶もそれを見て同様に、茶碗に口をつけて喉を潤した。茉莉花の香りとほのかな苦味が、胡蝶の緊張を解していった。
「美味しいですね」
「ここの隣にEDENという胡散臭いカフヱがあったでしょう。あそこの主人はちょっと名の知れた鉱石薬の研究者でしてね。偏屈な人見知りですが、いいものを仕入れるんです。あんなのでも、僕の育ての……いや、なんでもありません」
妙に気になるところで話を切られてしまい、胡蝶はぽかんと透明の顔を見た。心なしか、苦虫を噛み潰したような顔に見える。
鉱石茶は、食用鉱石である『鉱石薬』を用いて作られる。鉱石薬はその名の通り、薬の原料として煎じられる事が多いが、最近は薬のみならず料理の香辛料のように使われたり、少し小洒落た喫茶店の飲み物の色付けに使われる事などがある。ある有名な研究者が料理本を出してから、爆発的にその傾向が増したようだ。
なんという著者だったかと、胡蝶は手元の鉱石茶を眺めながら思いを巡らせていた。硝子碗の底に沈む瑠璃、その金色の内包物が薄い琥珀色の液体の中で慎ましく光っていた。