第弐話・虚構の心臓
本がたくさんある場所というのは、どこも同じように騒がしい。本たちはお互い好き勝手に話をしているし、タイミングが悪ければ『食事』の時間に重なってしまうこともある。
この悪夢都市では、本は『生きて』いる。その表紙は動物のように毛で覆われていたりもするし、爬虫類のようにざらざらしていたり、ごつごつしていたりと様々だ。生きているので食事もするし寝る事もある。それぞれの性格はその本の内容に左右されるようだが、基本的に彼等はお喋りで人懐っこい。少しでも多く自分を読んで欲しい、という欲求が本たちにはあるようだ。
そんな本たちの騒めきを、胡蝶は悪しからず感じていた。彼等の人懐っこさは心癒されるものがあるし、その内容に触れる時、その内容にとても魅了される本に出会えると、これ以上にない満足感を得られるからだ。一気に読み切ってその読後感に浸っていると、読んでいる間は静かだった本が途端に得意げな顔をしてくるのも可愛らしい。
今日も胡蝶はそんな心癒してくれる本との出会いを求めて、都立図書館に足を運んでいた。今日は何を借りようか、伝記ものも偶には悪くない、推理小説も心を惹き付けてやまないものだ。とにかく、自分に向けられる根拠のない噂話や、竜神のいない寂しさを一時でも慰めて欲しかった。
「こちょう? こちょうじゃないか」
本たちが飼育されている『本棚』を眺めて歩いていた時、一冊の本がこちらに気付いて声をかけてきた。
「あら、貴方は」
見覚えのある革の表紙だった。それは胡蝶が以前に借りて読んだ、此岸世界をモチィフにして書かれた小説だった。とても勢いのある面白い物語で、期間を延長して何度も読んだので覚えている。
「お久しぶりね。貴方がここにいるのは珍しいわね、いつも貸出中なんだもの」
そう言って本の背表紙をそっと撫でてやる。本たちはここを撫でられるのが好きらしい。
「さいきんはそうでもないよ。はやりはやっぱりれんあいしょうせつさ。しばらくかりてもらったりなんかしてやしない」
不平を漏らすその本に、思わず胡蝶はくすりと笑った。確かに読書好きな年頃の少女は、漁るように恋愛小説を読みたがる。
「貴方も充分面白いのにねぇ?」
「なあ、またおれをかりてくれよ。おれ、おもしろいだろう?」
その本の誘いに、胡蝶は困ったように小首を傾げた。確かにその本はもう一度借りても充分に胡蝶を楽しませる事ができるだろう。だが、今日はどちらかというと新しい本と出会いたい気分なのだ。
「貴方は今度続編が出るんでしょう? その時にもう一度読み返すわ」
「りゅうじん」
本が放った一言に、胡蝶は心臓のあたりがきゅっとしたように感じた。竜神、なぜこの本がその名前を。
「こちょうのいいなづけはりゅうじんといっただろう。おれ、しってる。いまのそいつのこと、しってる」
すると、その本の言葉を聞きつけて、他の本も声をあげはじめた。
「わたしもしっている」
「ぼくもきいた。なぐさまとゑぶさまがいいあらそっていた」
「ナグ様とヱブ様が……?」
ナグとヱブは、大正大君が初期に産み出した双子神で、この悪夢都市の政を担っている。いわばこの世界の上層部にあたる神だ。何故、そんな神が竜神の事を話していたのか。
胡蝶は最初に語りかけてきた革の表紙の本を手に取った。周りの本たちも騒いでいたが、後からやってきた司書に諭されて渋々本棚に戻っていった。
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図書館内の片隅にある半個室の読書室に入り込むと、胡蝶は後ろ手で鍵を掛けた。
「教えて。ナグ様とヱブ様は、何を話していたの?」
「もういちどおれをよんでくれるかい? そしたらなんでもはなすよ」
「勿論よ。教えてくれるなら何回でも読むわ」
胡蝶の返答に気を良くしたのか、本は満足気に反り返って見せる。そして自身を開くと、その空欄の頁に文字を浮かび上がらせた。
【この都立図書館はナグ様とヱブ様の秘密の会談場所。普段なら結界を張っていて、お二人の言葉は俺たちには聞こえない。だが、あの時は司書が結界を張り忘れていた。だから聞こえた】
浮かび上がる文字を逸る気持ちで読み進めていく。本特有の前置きの長さに、胡蝶は少し苛ついていた。
【竜神は、『神隠し』にあった】
その言葉に、胡蝶の動きが止まる。胡蝶はおそるおそる、その『神隠し』の文字を指でなぞった。
「神隠し」
【そう、神隠し。あのお二人が話していたのだから間違いない。時空の歪みが観測されたと話していた。おそらく竜神はその歪みから此岸世界に飛ばされてしまったのだろうと】
神隠し。それは、悪夢都市の世界と此岸世界がなんらかの力で繋がり、こちらの世界の人間がいなくなる事を指している。本来混じり合わない筈の二つの世界が繋がる事はとても危険であるし、悪夢都市の人間が此岸世界に行くと、本来在るべき世界との誤差のせいで自身の存在が薄くなり、やがて消えてしまうとも言われている。
「そんな……竜神、どうして」
気付くと胡蝶の目には涙が溢れていた。実は、胡蝶の母も胡蝶が幼い頃に神隠しにあったのだ。胡蝶が泣けども懇願しようとも、母が戻ってくる事はなかった。そしてジパングの法により、胡蝶の母は死んだ事になっている。
そして今、今度は竜神が神隠しにあってしまった。胡蝶はぽろぽろと流れ落ちる自分の涙を止める事ができなかった。
やがて、しばらく動きを止めていた本が、再び文字を浮かび上がらせた。
【泣かないで、胡蝶。あの店に行けば、何か方法があるかもしれない】
「……あの店?」
【シンジュク区にある、とある古本屋。俺たち本の間ではちょっとした噂になってる店。何故なら、俺たちはいけないんだ、その店に。その本で扱っているのは『死んだ本』だから】
死んだ本。その言葉に、胡蝶の涙がふっと止まる。それは、この悪夢都市で殆ど見かける事がない幻の書物。そしてそれ故に、死んだ本に関する噂は多い。もっとも多く言われているものが、『持ち主の願いを叶える』というものであった。
【だけど、胡蝶も噂で知っているだろう? 『死んだ本』を手に入れるためには、代償が】
しかし、全ての文字が現れる前に、胡蝶はその両手で本を掴んだ。
「構わない。その店を教えて」
図書館内であるため、胡蝶の声は抑えられている。しかし、その声色は鬼気迫るものがあった。
その瞬間、胡蝶と会話していた頁の文字は全て消え、一瞬で白紙に戻る。そして徐々に元の物語が浮かび上がり、本とは思えない力強さで胡蝶の手から離れ、その頁を閉じた。
「ここからさきは、わかっているだろ?」
そう言うと本は、少しおどけるような口調でぴょんと飛び跳ねる。察した胡蝶は、襷掛けしていた通学鞄を漁って図書カードを取り出した。そして本を手に取ると、決心した表情で読書室を後にしたのだった。