第壱話・未成年蝶の標本
遠くで三味線が爪弾かれる音と、男女の嬌声が混じり合って生温い風に溶ける。その風が頬にまとわりつく感触が、堪らなく不快だった。
本来、自分はこんな場所にいるべき存在では無い。女が春を売る遊郭など反吐が出る。しかし、止むを得ない。目の前の女に自分は用があるのだ。
品の無い紅い提灯がずらりと並ぶその部屋の、上座に設えられた形ばかりの鳥居の奥で、その女は手にしていた升の中の酒を煽った。
「つまり、その為にわらわの『力』を使いたいと。そういうことじゃな?」
女ーーと言ってもこれが本来の姿では無かろうが、花魁の如き派手な巫女装束に身を包んだこの巫女遊郭の『姫神』は、舐めるような目付きでこちらを見遣る。生唾を呑み込む、ごくりという音が部屋に響き渡った気がして、それを誤魔化すように深く首を縦に振った。
一瞬の間であったのだろう。しかし、やたらと長く感じた。下唇を噛み締めていると、上座の方でくつくつと笑う声が聞こえてきた。
「面白いのぉ? 面白い輩は嫌いでは無い。何に使おうがわらわは構わぬよ。欲しいと言うのであればくれてやろうぞ」
その言葉に、思わず顔を上げて上座の方に目を向ける。しかし既にそこには『姫神』は居らず、変わりに耳元で生温い声が響いた。
「しかし、ゆめゆめ忘れるなよ? わらわの『力』を得るという事は、それなりの対価を支払うということじゃ。お主にその覚悟はあるかの?」
紅く染めた長い爪が頬をつうっと撫でる。ぞくりとしたものが背筋を走り、思わず声が上がりそうになったが、ぐっと堪えた。そしてその返答の代わりに、女の顔をキッと睨みつける。
「ふふ……良い眼をしておるのぉ……。その眼、気に入ったぞ」
そう言うと、不意に目蓋に温かい感触が重なった。目蓋に接吻されたのだと気付くのに、暫く時間が掛かった。
「契約の印じゃ。これでもうお主はわらわから逃れる事は出来ぬ。……何があろうともな」
呆然とする自分を尻目に『姫神』はにやりと笑い、側に控えていた童に升を差し出して酒を注がせた。
遠くから聞こえてくるあられも無い嬌声。しかし、嫌悪感以上に今は心躍っていた。
これで。
これで自分は望みを叶える事が出来るのだ。
□□□
「おい、極楽堂。何度言ったらわかるんだ。憂鬱新聞なんて低俗なペイパァ、この店に置くつもりは微塵も無い」
その古本屋のレジカウンタァ前に座る銀髪の少年は、目の前の人物が持ってきた新聞を突っ返しながら溜息をついてそう言った。黒い詰襟の制服にマントを羽織り、制帽を目深に被った少年は、血のように紅い瞳をぎろりと向ける。
「まあ、そう言うな月の字。崇高なお前の趣味は大変に結構だが、ゴシップとてそれなりに味わい深いものだ」
極楽堂と呼ばれた人物は、そう言って琥珀色の目を細めにやにやと笑った。漆黒の短髪に中折れ帽を被り、襟無しシャツの上から男物の着物と羽織を着込んだ姿は容姿の整った書生にでも見えるが、その声と体格から女性である事がわかる。
その横から少女が顔を覗かせて、手にしていた盆の上の茶を二人の前に差し出そうとしていた。
「ああ、すまないな粉雪」
「粉雪……『お母様』はご多忙の故、もう戻られるそうだ。残念至極!」
月の字と呼ばれた少年は、まるで芝居がかった口調で少女に語りかける。少女はきょとんとして、二人の方を見た。フリルやリボンがあしらわれた真っ白な洋装が、この世界では珍しい水色の髪と瞳に相まって美しい。
「全く、嫌味を言うときばかり『母』などとのたまうか。育て方を間違えたな」
そう言って、女は深く溜息をつく。
「私とて、憂鬱新聞が面白いとは思っておらん。仕方なかろう、新聞屋の知人に頼まれたのだから」
「その、なんでも頼まれてしまう性格は改善の余地があるな」
「一部でいい」
「嫌だね。新聞なら涅槃新聞を取っている、間に合っているよ」
しかし、少年の言葉を尻目に、少女は女の手元の新聞を手にとった。女は驚いて目を見開く。少年もやや拍子抜けしたように、目を丸くして少女の行動を見守っていた。
少女はじっと新聞の記事に目を落としていた。目線の先にあったのは、『室井コトノハ鉄鋼グループ』の御曹司が失踪したという事件の記事。文章をつつつと指で追い掛け、やがてある一点で少女の指の動きは止まった。
「……粉雪?」
訝しがるように少年が声を掛ける。すると少女は顔をあげ、その藍玉のような瞳で彼を見据えた。
「御兄様」
鈴のように美しい声。あまり声を出さない少女のその言葉に、女が片眉を潜めて訝しがった。構わず少女は続ける。
「この店を必要とする方が、やがて此処に御来店されます」
その言葉に、少年は口の端を歪ませるような笑みを見せた。下心のありそうな笑い方だが、顔立ちの端正な少年はどんな表情をしても整っていて、返って凄みを増している。
「成る程、成る程。やあ、極楽堂。さっきの言葉を取り消そう、その新聞を一部頂けまいか? 妹のお気に召したようだからね」
「あ、ああ……」
少年の表情に女はやや怯みながらも、彼が差し出した通貨を受け取った。
□□□
悪夢都市ジパング。帝都時計塔におわす大正大君の気紛れからこの世界は成り立っている。悪夢都市と紙一重の此岸世界の人間は、その知性を発達させた代償として、過剰な発達の負荷をその無意識下に押し込めた。それが人間の悪夢と化している。人間の脳髄を糧としていた大正大君は、その溢れる悪夢に興味を唆られたのだろう。いつしかその悪夢を糧として、物質や民を産み出した。それが発展して、現在のジパングになっているとされている。
帝都トウキョウは、ジパングの中でも一際賑わう主要都市だった。レトロモダンな石造りのビルヂングが立ち並び、路面電車が行き交う合間を様々な種族の民が闊歩する。これらも全て大正大君の産み出した文明である。
黒蜥蜴女学院も、そんな帝都トウキョウの一角にある学舎であった。黒蜥蜴女学院は初等教育から中等教育までを一貫した学校で、その学舎に通う少女たちは「黒蜥蜴の淑女」として誉れ高い。今日も様々な種族の美しい乙女たちが、制服として定められている紫檀色の袴と黒茶の編み上げ靴に、思い思いの艶やかな着物を合わせて登校していた。
その中に一人、背に大きな蝶の翅を垂らし、緩やかに波打った翠玉色の髪を、その背にある翅に似た揚羽蝶の髪留めでまとめている少女がいた。その金色の瞳は、伏し目がちに哀しみを湛えている。ただ一人歩く蝶族の少女を、他の女学生たちは遠巻きにして囁き合っていた。
「ほら、彼女よ。失踪した室井竜神様の許嫁だったっていう……」
「昨日のラヂオでは、室井様は心ならぬ婚約を苦にして、想い人の方と駆け落ちをしたと言っていましたわ」
「わたくし、新聞も読みましてよ。室井様、お可哀相に……胡蝶さんたら、お恥ずかしくはないのかしら」
風に流れて耳に入る囁きは、少女の深い溜息を誘った。
鈴木胡蝶は、確かに失踪した室井竜神の婚約者であった。二人が出会ったのは親の会社同士で行われた食事会の場であり、二人の婚約も会社同士の政略が息づく親の謀であったことは間違いない。
しかし二人は、少なくとも胡蝶は竜神のことを心から慕っていた。例え親が決めた婚約であっても胡蝶は自分の伴侶となるのが竜神であることを嬉しく思っていたし、竜神もそれを悪しからず思ってくれていたと、そう感じている。それともそれは、胡蝶の独り善がりであったのか。竜神が海で釣り糸を垂らす時間、傍らで本の頁を捲るあの穏やかな時間を快いと思っていたのは自分一人であったのか。
胡蝶の口から再び深い溜息が漏れそうになったその時、後ろから慣れ親しんだ声がかけられた。
「ご機嫌よう、胡蝶さん」
その声に胡蝶が後ろを振り向くと、淡い黒檀のような紫かがった髪を、華やかな簪でまとめ上げた級友が微笑んでいた。白銀の瞳を優しく細めたその穏やかな表情に、胡蝶は思わず涙が溢れ落ちた。
「菖蒲さん……私……」
「わかっておりますわ。あんな心ない噂など、どうかお気になさらないで。胡蝶さんと竜神様のことは、わたくしが誰よりもわかっています」
そう言って励ますように微笑む菖蒲に、胡蝶は涙を浮かべながら、それでも気丈に微笑んでみせた。
「ありがとう、菖蒲さん」
「お礼なんて……わたくしたち、親友でしょう?」
菖蒲は通学鞄から白いハンカチーフを取り出すと、そっと胡蝶の目元に押し当てた。ハンカチーフからはふわりと花の香りが漂い、胡蝶の瞳に溜め込まれた涙を吸い取っていく。
女学校で知り合った彼女は花族の出身で、胡蝶の最も親しい友人であった。花族の女性は気位が高い事が多く、また、偏った選民思想を持つ者も多いため同族同士で集まっているのをよく見かける。しかし、菖蒲は花族に珍しく穏やかな気質の持ち主で、級友からの人望も厚い。そして何より、慈愛に満ちたこの女性が自分を「親友」と言ってくれる事を、胡蝶は心から嬉しく思っていた。竜神がいなくなった時も、真っ先に胡蝶の心配をしてくれたのは菖蒲だった。
気付けば、遠巻きに噂話をしていた女生徒たちの声が聞こえなくなっていた。菖蒲を前にして皆気が引けたのであろう。胡蝶は菖蒲という友人の存在を心強く思った。
「さ、胡蝶さん。教室に向かいましょう。今日は裁縫の授業がありましてよ」
そう言って胡蝶の手を引く菖蒲に、胡蝶は微笑みを返して再び歩き始めた。