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序章 「在りし日の勇者の結末」

 ――勇者とはなんだろうか。

 曰く、魔王を討つ勇敢なる者。

 曰く、勇者の血を引く者。

 故に、勇敢にして蛮勇を越える者。

 剣と魔法の世界における人類の希望であったり、誰にも彼にも手を貸してしまうお人好しであったり、光の女神に託宣を受けて導かれた人であったり、ハーレムを形成して俺TUEEEに浸る者であったり、血筋に任せてなんやかんやで世界を救ってしまった人であったりと幾多の世界があれば那由多の勇者像があるに違いない。

 ――フィクションの偶像。

 けれど、けれどだ。彼らには共通して持ち得ているものがある。

 圧倒的な戦闘能力、それも魔王と呼ばれる人類最悪の存在を討つだけの力を得ている。

 瀕死になり覚醒を果たす者も居れば血筋によって覚醒する者も居れば神に与えられた力を振るう者も居る事だろう。過程は違えど結果は同じなのだ。

 ――本当にそうだろうか。

 勇者の誰もが王様から褒美として姫を娶るのだろうか。

 世界を救った英雄として歴史に残るのだろうか。

 元の世界へ帰って平和を謳歌するのだろうか。

 果たして、勇者とはそれほどまでに美化されるべき存在なのだろうか。

 嗚呼、確かに彼らは世界を救ってくれた英雄で恩人に当たるのだろう。

 敬愛され、尊敬され、語り継がれるべき存在なのだろう。

 さて、そんな彼らを平民の、それも武器を持った事の無い市民と比べよう。

 ――彼らを人として見れるだろうか。


「来るな、化物めぇッ!!」


 答えは否。化物だ。

 ――これは、とある勇者の顛末だ。

 人類の存亡を揺るがした魔王を討伐した存在こそ、その世界において最強の存在である証明となる。勇者と言う肩書きが、肩書きを背負って成し遂げてきた英雄譚が、英雄譚によって証明された圧倒的な力の存在に恐怖を感じやしないのだろうか。ハッピーエンドを迎えた彼らには人望が人徳が理解があった。勇者と言う人物の性格を誰もが知っていて、恐れられても庇ってくれる仲間が居て、誰もが平和に心を和気藹々と弾ませて、成し遂げてくれた勇者に対して感謝をしてくれた事だろう。

 ――彼の勇者、朝霧庵(アサギ・イオリ)はそれらに恵まれなかった少年だった。

 十五歳の身で勇者としてアルカナと呼ばれし世界のエルケンディッヒ王国に召喚されたのは五年前の事だ。当たり前だろうと言った高圧的な態度を取った王族により魔王を倒す勇者となれと命令され、殴り合いすらも経験した事の無い平和な世界から召喚されたアサギは騎士団長直々に指導を受け、一ヵ月程度の鍛錬を経て追い出されるようにして王城から旅立たされた。

嗚呼、それこそが彼の不運の始まりだった。

女神より与えられたと言う勇者の剣を手渡され、一般会話程度の語学力を無理矢理教育されただけの少年が魔王が住まう西の地へ向かう事の壮大さと悍ましさは計り知れないものであった。

 ――旅の結末を言えば連れ添った三人の仲間には裏切られ、王国の刺客により暗殺されかけた。

 アサギが何をしたかと言えば、奴隷のような境遇で元の世界へ帰るための術を得る一心で魔王を討伐した偉業を成し遂げただけだ。何も悪い事はしていない、それどころか世界を救った大英雄だ。それが途中で朽ち果てるだろうと嘲笑われた彼の成し遂げてしまった英雄譚であったのだ。吟遊詩人がこぞって語り継がれるべき誉れある事だったのだ。たった一夜の裏切りにより、勇者は化物へと身を落とす事の悲劇を誰もが可哀想だとは思わない。むしろ、何時まで化物を生かすのかと責め立てた。

 ――故に、異世界と言う居場所の無い世界で生かされ続けて来たアサギの精神は限界を迎えた。

 王国へ凱旋する後一歩の距離にあったウロの村は逃走劇を目撃してしまった事で、口封じの虐殺に遭って無人と化した。あれ程までに人類の首を絞めて来た魔王。それを殺した勇者を殺すために組まれた暗殺部隊は非情なる行為を持ってアサギを追い詰めた。肌着と聖剣一つのアサギの目の前で村人を焼き殺し、殴殺し、刺殺し、老若男女問わず虐殺せしめた。お前のせいだ、と指を向けた。アサギの精神を追い詰め、責め立てる彼らの後ろにふらりと現れて武器を持った仲間を見て――。

 度重なる死を迎えて尚折れなかった心に罅が入った音がした。

 異世界人であるアサギは本来持つべき魔力を持っていない。しかし、聖剣デウスエクスはそれを補うだけの魔力生成能力を保持していた。魔力とは人が持つオドからなるマナを纏めたエネルギー、そのため千差万別の色を持つ。デウスエクスを通じて扱っていたアサギの魔力色は翡翠色だった筈だった。しかし、荒れ狂う魔力の奔流は紅く炯々と染まった錆色を成しており、暴虐を振るった。

 一振りで家屋ごと人が弾け飛び、二振りで地面ごと人が引き裂かれ、三振りで村は更地と化した。


「クソッ! 何で当たらなギィッ!?」


 逆巻く奔流は留まる事を知らず、勇者としてのステータスを万全に振るったアサギは王城へと至った。勇者討伐令は既に全衛兵及び王国騎士団に通達され、闇夜に紛れた殺し合いが始まってしまった。かつて豪華絢爛な美辞麗句を並べ立てる程に美しかった調度品を飾った廊下はミキサーに掛けられたかのように無残な光景を齎していた。白く清潔に保たれていた壁はトマトをぶつけたかのように所々に赤黒いペイントが施され、蹴り破られて吹き飛んだ細かな装飾がされた扉が散弾の如く砕かれた事で針鼠のように絶命する死体が一つ二つと増えて行く。荒れ狂う魔力によって竜巻を起こし続ける聖剣デウスエクスが悲鳴を上げたかと思えば更なる奔流が作り出され崩壊する王城を死体蹴りされる。


「た、助けてくれ! 俺はただ命令されただけで――」


 剣を投げ捨てて命乞いをした男はかつてアサギを嘲笑っていた者の一人だった。一瞥の刹那すら無く向けられた聖剣によって解き放たれた魔力刃の旋風により微塵にされ、赤く染められた高級なレッドカーペットの一部となる。それを見た他の騎士団員が錯乱して飛び掛かったが新たな染みを作るに終わった。逃げ出した背中を撫で斬りし、後退る胴を袈裟斬りし、襲って来た身体を縦に分断し、アサギの視界に居る悉くが聖剣の奔流か死地により磨かれた絶技によってその命を消し飛ばされて行く。まるで塵が風に飛ばされて行くような光景が其処にはあった。端で蹲っていた女性騎士団員の首を縊り落し、諦めて立ち尽くす木偶となった男性衛兵を磨り潰し、扉の裏隣に潜んでいた暗殺者を振り返る事無く斬り捨てた。余波によって右足を砕かれた男の首を躊躇い無く踏み潰した。

 暴虐の限りを尽くすその姿は勇者と呼ぶに相応しくない。嗚呼、だがそれはアサギにとって皮肉にはならない。何故なら彼は最初から、旅が始まる前から自身を勇者だなんて思いもしていないのだから。

 元の世界に帰るためだけに続けて来た苦行だった旅の終わりが近付いて行く。


「国賊がッ! お、王に手出しはさせんぞッ!!」


 王城一階の最奥から二階に続く形で謁見の広間へと続くエントランスが、躍り出た肉塊を切り裂いた事で視界に広がった。それはかつて騎士団副長として名を馳せた者であり、騎士団長たる女性の指導を一心に受けるアサギに対し嫉妬心を抱き、苛烈な基礎鍛錬を苛立ち交じりにぶつけた醜い男だった。飛び散った血を暖簾をくぐるように避け、踏んでしまった液体をカーペットに擦り付けたアサギは二階に上がるための階段を見上げるようにして見やる。

 そして、待ち構えていた騎士団長フィリエッタ・シュメールと邂逅を果たした。

 王国騎士団の鋼色に輝く騎士鎧に身を包んだ長身のフィリエッタは三つ編みにして肩から流していた黄金の長髪を首を振るって背へと追いやった。その仕草は旅立ちの日までに見慣れた光景であり、それが決まって鍛錬を開始する時の合図である事をアサギは目を細めて思い出していた。ただ違う点があれば、その髪の長さが伸びていた事だろうか。

 あれ程までに暴虐を振るっていた聖剣から奔流が次第に止まり、無風となった今語りを妨げる影も無く、二人は対峙した。互いに胸の前で剣を立て、視界を遮っていた剣の腹を手首を返す事で刃を向ける。一段ずつ下りてくるフィリエッタが近付くに連れて、離れていた距離がお互いの歩みによって縮まって行く。その途中、割れた窓から差し込まれた月光がフィリエッタの表情を照らす。彼女の表情は苦虫を噛み潰したような苦渋の色に染まっていた。たったそれだけの事で救われた気がした。少しだけ軽くなった心が表情の険しさを和らげ、しかめっ面から険が抜ける。

 互いの距離が十歩の歩みだけになった事で足音が止まった。


「……何を、言うべきなのだろうな。行かせはしないと糾弾すべきか。……いいや、逞しい顔つきになったと褒めてやるべきなんだろうな……」


 口から緩やかに息を吐き出したフィリエッタの表情からは苦渋は消え失せ、昔語りを始めるような穏やかさが浮かんでいた。対して、五年前の童顔から懸け離れた荒々しい風貌となった青年の顔で、アサギは感傷に浸るように虚空を見やっていた。忘れた時はありやしなかった。それだけアサギにとってフィリエッタと言う存在は眩しい存在だったからだ。


「私は君の教官として何かを託せたのだろうか。フランクを斬り捨てたあの歩法は確かに私の教えたそれだ。だが、腰から上の動きは教えたそれとは違った。……成長したのだな」

「……当たり前ですよ。西の死地で何度も、幾度も、死んで死んで死んで、生き返され続けて、魂に馴染むくらいに教わった剣術を使い続けたんですから。知っていましたか? この剣、手にした者を勇者に仕立て上げるものでした。勇者で在り続ける限り、死ねない祝福を与える。それが、この聖剣デウスエクスの、勇者生成機の役目でした。そこらの市民がこれを抜けば勇者になれる、そんな代物でした」

「そう、か……」

「魔王も、そうでした。聖剣デウスエクスの鞘である魔盾マーキナは手にした者に魔王と言う存在に仕立て上げる代物でした。……機会仕掛けの神具デウスエクス・マーキナ。それこそが此度の争乱の始まりにして元凶、魔王と勇者を作り上げるだけの神が齎した武具の力の真なる名。勇者と魔王に制約を縛り、どちらかが相手を殺すまで終わらない狂騒曲を生み出すものでした。勇者の召喚だなんて嘘っぱち。最初から仕組まれていた遊戯だった訳です。……本当に、救えない話です」


 フィリエッタを見据える瞳は濁ってはいるものの意識あるものだった。怒りと悲しみを混ぜ込んだ感情に溺れていた時と比べ、正気を保っていると言って宜しい状態。五年も経ち風貌も体格も変わったアサギはまるで死ねない骸の印象を感じさせていたが、今一時は人の温かさを取り戻した姿に見えた。


(このようにしてしまったのは偏に私たちのせいなのだろう)


 そう悔しさを込み上げてくるのを隠すフィリエッタの瞳が微かに揺れる。アサギよりも少々高い長身を持つフィリエッタが抱き締めたならば、その体格と対比的な儚さに気付けた事だろう。総筋量や骨密度が高まって重い筈の体重も何処か軽く感じてしまうに違いなかった。だが、彼らの間には二振りの剣があった。胸の前に構えるそれらこそ敵対せねばならない相手に向ける手向けにして手段であるからだ。フィリエッタは王国騎士団長として国賊とされたアサギを斬らねばならない。そして、アサギはフィリエッタの後ろにある階段を上り憎き王を討たねば終止符を打てない。お互いに譲る理由は無い。だが、彼らの実力差は途方も無いものである事をお互いは知っていた。片や王国住まいの騎士、片や死地に磨かれた勇者である。その差は愕然の代物である事を言うまでもない。だが、二人は対峙せねばならなかった。騎士としての矜持と勇者とされた怨み。

 二人の感情は交わる事の無い代物であったのだ。


(変わらないな、あの時から……何も)


 勇者の肩書きという重荷を被せてしまった事を悔いるフィリエッタの心境とは裏腹に、アサギの心情は清らかなものであった。フィリエッタと言う女性に出会い、剣術を習っている間だけが夢中になり、そして心穏やかだった一時である事を誰よりも知っているのは自身のみ。誰かに縋る事すらもできず、逃げ道は断絶した崖があるだけ、ただの少年であったが故に勇者の責は明らかに重過ぎた枷であった。何故こんな少年を、そう嘲笑った者は数知れず居たが、アサギを想ってくれた者はフィリエッタだけだった。彼女だけは知っていたのだ、彼の剣に乗る嘆きと怨嗟を誰よりも知っていた。だからこそ、勇者として旅立つその瞬間まで手を緩めず、アサギのためにと誰よりも悩み、あらゆる手筈を用いて培った剣を伝授した。だが、伝授し切る事は流石にできず、送り出してしまった事こそが唯一の悔やみであった。しかし、先程の足捌きを見て納得した。アサギはフィリエッタの伝授した内容、そして彼女自身の姿を思い出して完成に至り、死地の煉獄によってそれを昇華させた己が剣術を作り上げたのだと。


「これ以上は剣を持って語ろう、それが早いだろう?」

「……剣は己を語る、それが口癖でしたもんね教官」

「私を、まだ教官と呼んでくれるか」

「僕の教官は貴女だけですから」


 その吐いた息のような呟きは静寂を越えてフィリエッタの耳に届いた。王国騎士団の教えの一つとして決闘の構えがある。それは胸の前に掲げた剣の刃を相手へ向ける事だ。幾度も無く、経過を見るための試合として己が本気を持って決闘を用いたフィリエッタの性分である事をアサギは知っていた。知っていたからこそ、懐かしさを覚え、不覚にも抱いた感情を思い出して復讐心が薄れて正気に戻ったのはきっと皮肉な事なのだろう。アサギにとってフィリエッタこそが始まりの人なのだ。彼女が始まりであるならば、死闘を持ってぶつかり合った魔王こそが終わりの人だ。勇者アサギの始まりにして、彼の剣術の基礎を築いた教官こそフィリエッタだった。

 十歩の歩みをすれば零となる間合いを取る今の位置こそが決闘の距離だった。刃を向けた時点で既に始まっている決闘であるが、お互いの心境は最高のコンディションとは言い難いものであった。実力差は五年前とは反転し、アサギが上位でフィリエッタが下位だ。しかし、決闘の場で全力を出さない事は相手への侮辱であると教えられている。だからこそ、それを思い出してしまったアサギの心境は最悪だった。アサギの剣は邪剣である。聖剣の力により死ねないアサギは己が身体を無視した剣技を用いる他、決闘のような真正面からの戦いを捨てた暗殺者に似た戦法を取る。その戦い方はフィリエッタの怒りを買うに決まっている。それを一番知っているからこそどうしようとシリアスな場面の中で内心焦り始めていた。


「どうした、来ないのか? 五年の集大成を見せてみろ――イオリ(・・・)ッ!!」


 そして、これもまたアサギが困る理由の一つだった。名前を前に置くこの世界において、最初の自己紹介の際に朝霧庵と答えたが故に、他の者からはアサギが名前と認識されているが、フィリエッタにだけは本来の呼び方を教えていた。故に、普段からファーストネームを呼ぶ常識のあるこの世界においてアサギの名を呼ぶ人はフィリエッタしか居なかったのだ。誰よりも自分を見ていてくれた人に名を語ったのは淡い感情を抱いてしまった名残なのだろう。気恥ずかしさから頬に朱が帯びてしまう。

 残した後悔はこの彼女への思いだけだった。乾いた笑みを浮かべてから、噛み締めて押し潰した。

 覚悟を決めれば、決着は一瞬で終わってしまうと知っていたから。

 フィリエッタの足が歩もうと微かに前へ揺れた瞬間にアサギの頭脳はスイッチを切り替えていた。

 十歩の距離は既にアサギの間合いである。アサギが一歩目を踏み出した途端に姿が消え、気付いた瞬間には目の前に居る事に気付く事ができなかったフィリエッタは一瞬の余白めいた思考を遅れて感じながら背筋を凍らせた。炯々とした黒に染まった瞳は白磁の壺のくびれめいた首筋を見ており、二歩目で跳躍するようにすれ違った時には聖剣は振り終えていた。瞬きの刹那を捉え、首筋の薄皮を優しく撫でるだけに留めたその絶技に戦慄が奔った。アサギの剣は邪剣である。鍔競り合う戦いでは無く、死角から放つ弾丸のような狡猾さこそが真骨頂であった。敵を殺すための手加減を必要としないどころか躊躇いすらも放り捨てるような環境に居た弊害であり、たった一時も連れ添った三人へ背中を預けなかった程に信頼と言う言葉を唾棄していた故の歪な成長の集大成。勇者と言う身体的なステータスを人を越えた場所へ置いているからこその絶技が一撃必殺を帯びるのは当たり前な事だった。

 視覚に頼る相手であれば尚更にアサギの邪剣は毒牙を剥く。刹那の隙でさえ必死の致命傷と成り得るのだから、彼を相手にした魔物たちは恐れ戦いた事だろう。何せ、知性が乏しいが故に本能によって構築された殺意による昇華を経た戦いは一瞬の出来事が勝敗を分けるのだから。その隙を搔い潜る姿は滑空した燕の如し、地に足を付けているためいつでも加速ができるその恐ろしさは戦場で猛威を振るった。旅が終わりに近付けば近づく程に勇者と言う化物の刃は研ぎ澄まされて行ったのだ。

 首に横へ一線され些細な傾きによってぬめり落ちて行く、そんな疑似的な死亡体験を幻覚したフィリエッタは荒い呼吸を繰り返して噴き出す汗の心地悪さに生を感じていた。死の予感は鼓動が高まるにつれて心の奥底へ溜まるように訪れていた。その死の予感はフィリエッタの感情から漏れだした恐怖と畏怖より生じたものであった。アサギは一切殺意無く首筋を狙う事ができた。それを実行した、してしまった、できてしまった。殺す意思を持たずに殺せると言う事実がアサギの精神がどれだけ壊れ切っているかを忠実に表していた。息を吐く事を意識した事はあっただろうか。アサギは先程の絶技を呼吸するようにできてしまっているのだと理解する事に気付かない訳が無かった。


「僕の五年間は殺意に塗れていた。後ろからも、前からも、何処に居たって向けられて、眠りに付く事すら恐怖を感じてしまって深く眠った事は無い。殺される前に殺さなくちゃ生きていけなかった。誰も信じられやしなかった。こんな、何もかも空っぽになってしまった伽藍堂な僕が勇者だなんて、僕でさえ思った事は一度たりともありやしなかった。こんな、伽藍堂な勇者が居て堪るものか。僕は、勇者なんかじゃない。僕は、……()は勇者の肩書きに弄ばれた化物でしかなかったんだから……ッ」


 互いに背を向けて階段の両端に位置したその構図は何とも皮肉だった。

 人には越えれないその階段をアサギは勇者と言う肩書きによって歩み切ってしまっていた。そして、勇者と言う化物を直視する事ができないと恐怖と畏怖を抱えて視線を逸らす。

 アサギの五年間の縮図が此処にあった。

 フィリエッタが振り返る前にアサギはその場を去った。それは、かつて温もりを感じてしまっていたフィリエッタの表情を、感情を吐露した後に抱いたであろう事から口にするであろう言葉を、恐れたからだった。見てしまえば、聞いてしまえば、もはや罅割れすぎて白にしか見えない心が砕けてしまいそうだったからだ。もしも砕けてしまえば、勇者の制約によって正常に戻されてしまう。そうなれば、今まで抱いてきた感情が新たな感情に置き去りにされてしまうと身を持って知っていた。今の感情を忘れたく無いから、その心の震えが焦燥を駆り立てて逃げ道を選んでしまった。玉座と外を分かつ扉は重い造りをされており、開放されなければ声が届かない程に分厚いものだった。それ故にアサギはフィリエッタの返事を聞けなかった。それは、誰も頼らなかったからこその弊害であった。

 力無く膝を落とし、悲しさと悔しさから静かに涙を流す懺悔の声は届く事は無かった。

 豪華絢爛の贅沢を尽くしたかのような華美な装飾に彩られた玉座へと続く床には赤い絨毯が道のように伸びていて、その先には腰を抜かして歯を打ち鳴らすみっともないアサギの敵が居た。彼こそが、このエルケンディッヒ王国を治め、勇者をこの世界へ召喚する事を決めた国王その人であった。異世界から拉致した少年を奴隷のように扱い、腐り物を遠ざけるが如く躊躇い無さを持ってして勇者を担ぎ上げた悪意の根源。真実を知らなければ、全ての元凶と断じていたであろう愚かな男は顔を蒼白に染め上げ、軽度の過呼吸を患ったのか呼吸が途切れ途切れで息を吸う事に必死になっていた。そんな国王を視界に収めたアサギは侮蔑の視線を向け、荒れ狂う憤怒の奔流を聖剣へと垂れ流し始めた。暴虐の魔力が竜巻の如く収束し、その余波を歩む右方の床を削って行く。唸り狂う獣の如く咆哮が玉座を崩さんと吼え立てる。嗚呼、それこそがアサギの抱いた憤怒の現れであった。


「――俺を裏切った、それが貴様の死ぬ理由だ」


 たるんだ顔の皺を動かす暇すらも与えずに躊躇い無く聖剣を振るった。人間であっただろうその肉片が辺り一面にぶちまけられ裏切りの末路を凄惨に彩る。アサギはフィリエッタとの最期の逢瀬で得た温かさを失う冷たさに心を凍らせて行く心地を覚えながら、漸くにして辿り着いた始まりの場所へと歩みを進める。あれから五年、一度たりとも止めなかった歩みが漸く、止まった。そう、この場所こそ四大属性の精霊を奉る神殿と位置を合わせた召喚の間でもあった。此処まで至るまでに起きた出来事は初めての経験ばかりで、それでいて痛みと苦難の終わらないスパイラルに閉じ込められた監獄だったと唾棄し、嫌悪と憤怒だけが燻ぶる今へと至る始まりの場所だった。

 ――此処で、朝霧庵(あさぎ いおり)と言う少年は死に、アサギ・イオリと言う勇者が生まれた。

 感傷に浸る心地は真っ黒な毒液の底なし沼に沈むが如く、血と裏切りと破壊を尽くしてもなお留まる事を知らない憎悪が逆巻く。清々しさの欠片も生じない気持ち悪さが段々とアサギの心を苛んで行く。それは細布によって巻き付け隠された左腕の付け根から発する痛みめいた疼きによって鼓動を刻むように加速して行く悪循環に陥っていた。聖剣へ注がれる行方知らずの殺意が魔力刃の唸りを上げ、血払いの一振りによって玉座を囲む四つの大支柱たる四大属性を讃える礼装が切り刻まれた。崩れ行く玉座を尻目にアサギは、白い布帯によって多い隠された左腕の手を握り締めるように力を込めた。


「来い、魔盾マーキナ」


 空間を捻じ曲げて主の声に応じたのは大型の長方形の盾。一切の飾り気を帯びないその無骨過ぎるデザインは魔王を作り出すためだけの神具としてあったためか、内側に聖剣を差し込むための機構が施されたこの盾こそ聖剣デウスエクスの鞘であった。そして、聖剣の鞘を召喚したアサギは素早くデウスエクスを差し込む挙動を取る。――瞬間、アサギの足元にかつての光景と重なる魔法陣が展開された。魔法陣へ込められる魔力の充填の速度は正しく神速であり、アサギの取った行動を許さないと吼え立てるかのようだった。それを待っていたと言わんばかりに歓喜の笑みを浮かべたアサギは嗤う。


「そうだろうな、貴様はこれを絶対に阻止しに来ると思っていたッ!! ――だが、間に合ったぞ、戯けッ!! 真なる名を開放せよ、機械仕掛けの神具デウスエクス・マーキナッ!!」


 聖剣デウスエクスが担うは――勇者生来。

 彼の者に不死を与え、魔王を討つ力を与える。

 魔盾マーキナが担うは――魔王再誕。

 彼の者に知性を与え、勇者を討つ力を与える。

 魔王が居る事で勇者が生まれる。その因果を世界事象として強制的に執行する事こそが機械仕掛けの神具デウスエクス・マーキナが担った機構だった。そして、魔王は勇者に討たれる事で、勇者は旅路を終える事で契約が解除される事が定められていた。正しくそれはマッチポンプであった。やがて、鞘に聖剣を納める事で改変された因果は収束を辿り破却される。それこそが魔王を討った勇者であるならばその結末を迎える筈だった事象だった。

 ――激戦により失った左腕を取り換え、そこへ魔王の魂を宿した勇者がそれを行なえばどうなるか。

 内側へ聖剣を取り込んだ事で真なる力へと戻った瞬間、破却される筈の契約が魔王と勇者が存在する矛盾によってエラーを引き起こし、原因を確かめるためにアサギへと繋がった事で更なるロジックエラーに苛まれて行く。自己矛盾によって完全に機能を停止した機械仕掛けの神具デウスエクス・マーキナを放り捨てる事無く、魔法陣が担う新たな世界へと抱え込んだアサギはざまぁみろと嘲りながら光の粒子の奔流に溶けて行く。


「これで、第二、第三の勇者は生まれない。残念だったな――」


 転移が完了し最後まで言い切る事はできなかったがその言葉の続きは言わずとも伝わっていた。崩れて落ちて行く瓦礫の音に混じるクスクスと笑う声は静かに響き、狂気的な笑い声が天井が崩落した事により生じた轟音によって掻き消されて行く。玉座から連鎖し続けた崩御の悲鳴が王国全域に響き渡り、誰もがその光景を見て呟いた。勇者を蔑ろにした罰が下ったのだと、そう心根から呟いた言葉だった。誰もが見て見ぬ振りをして救いを求める手を払った代償は高く付いたのだと、後の歴史家は語る。

 ――助けて、勇者様!

 まだ見ぬ声に導かれ、血塗られ裏切られ乾き切った元勇者は旅立って行く。

 彼の者の栄誉を冒涜する逆撫でた嘲笑を漏らす者に見送られながら――。

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