戦時下の少女と三八式歩兵銃
むかし、コミティアで出した短編集の一つです。
意外と世に知られていないことだが、先の大戦下において、我が国の女学校でも軍事教練の一貫として、女学生たちによる三八式歩兵銃の実弾射撃訓練が行われていたという事実がある。
ーー昭和十八年のよく晴れた秋空の下。
東京の武蔵野にあるその明治時代から続く、由緒正しい名門ミッションスクールにおいても、戦時下の今日、三八式歩兵銃の射撃訓練が行われていた。
軍事教練を指導するのは、騎兵科出身の配属将校。まだ若い少尉だった。
ニューギニア戦線で片目を失い予備役に編入され、その後、女学校の配属将校の任を命じられていたのだった。
ハンサムで騎兵科出身らしいスラリとした体躯。片目の黒い眼帯。そして帝國陸軍軍人らしからぬ、軽妙洒脱な語り口に、女学校の生徒たちは皆熱狂的といっていいほどのファンになっていた。
とある一人の少女も、その将校に強い憧れの念を抱いていた。
だが極度に内気で、運動も苦手。趣味といえば読書ぐらいの彼女にとって、あくまで彼は遠い憧憬の対象でしかなかった。
どこかの組の女生徒が恋文を、その配属将校に送ったとか送らなかったという、たわいのない話で周囲のクラスメイトは盛り上がっていた。
だが想い人とわずかに触れ合うきっかけすら、自分にはないだろうと思うと、少女は暗い気持ちになるのだった。
しかし、そんな少女と配属将校の人生が一瞬交錯するという思わぬ展開が訪れた……。
三八式歩兵銃の実弾射撃の前に、座学があった。
今までニコニコと陽気にしゃべっていた配属将校が、講義の終わりに突然目つきを鋭いものにし、語調を硬くして言った。
「いいかい。決していかなる時も、君達は銃口を人には向けてはいけない。これだけは絶対頭に入れておくように。たとえ、それが実弾が装填されていない、空砲であってもだ」
少女は眼帯で隠されていないほうの瞳がその瞬間、怖いぐらいに鋭くなっているのに気づいた。それは今まで決して女生徒達に見せたことがないような、鋭く細い目付きだった。
その瞳を見て少女は、目の前の教壇に立っているこの男性が、中国大陸やガダルカナル、ニューギニアと転戦してきた本物の軍人だということを改めて思い返した。
——戦地でこの人はどんな体験をしてきたのだろう……
だがそれは、まだ平和な内地にいる、一介の女学生である彼女には想像もつかないことだった。
そして座学は終わり、実弾射撃の開始となった。学校の校庭の百米(100メートル)先に弾受けの堀が掘られ、その中に軍事教練の手伝いに来た兵隊が入り、棒の先にスイカの大きさほどの丸印をつけた標的を示す。それを一応狙え、という流れだった。
紺色のスカートの制服を着た少女は基本射撃姿勢通りに三八式歩兵銃を地面に伏せてかまえた。
さきほどの座学の時、生まれてはじめて実銃に触れたが、こうして自分の肩に銃床をあて構えると、よりいっそう、その迫力に圧倒されぼーっとしてしまう。
そうこうするうちに、あちこちからパカン、パカンという渇いた発射音が聞こえはじめる。あわてて彼女は三八式歩兵銃の弾倉へ、座学で習ったとおり弾薬五発をまとめたクリップを装填すると、遊底を前進させ薬室に三八式実包を装填した。
そして、安全装置を外し、引き金にそっと指をかけ、照門と照星を標的に合わせ、一発、撃つ。
突然の激しい轟音、そして肩へのきつい反動。少女は思わず恐ろしくなって歩兵銃をその場に投げ出してしまった。
「大丈夫かっ!」
眼帯の少尉が顔色を変えて少女のもとに駆け寄る。
精神的に混乱状態に陥ってしまい何も答えられない少女。
「怪我はないようだな。だが念のため、保健室へ行こう。——そこの軍曹、名前は何だったかな、君、この場を任せたぞ」
そう応援の兵隊に命令すると、いきなり少尉は、荒い吐息を繰り返している少女を両腕で抱え上げ、保健室の方へと歩調を進めた。
彼の長い脚が地面を蹴るたび、抱きかかえ上げられた少女のスカートの裳裾が揺れる。
やがて発砲のショックも収まり我に返った少女は、自分が生まれて初めて異性に抱かれていること、それも相手が『あの』憧れの配属将校であることに気が付き、顔を大いに赤面させた。
保健室の前まで来ると、
「立てるかい?」
と少尉が聞いてきた。
恥ずかしそうに、コクリとうなずく少女。少尉は優しく手を支えて少女をその場に立たせてやる。
扉を開けて室内に入ると、そこは無人だった。一人いた担当者は半年前に衛生兵として徴兵され、とっくに南方のどこかの戦線に送り込まれていたのだった。
「ベッドに横になりなさい」
優しげな口調でささやく配属将校。
少女は素直にベッドに横になった。
それからしばらくして少尉は不意に口調を変え、
「怖かっただろう?」と聞いてきた。
「はい……怖かったです」
小銃を一発まともに撃つことすらできない、まさしく銃後の守りにすらなれない自分の不甲斐なさに、泣きそうになり、少女はかすれた小声で答えた。
——ああ、この少尉さんに、わたしは軽蔑されているだろう……
そう思うと、ほんとうに涙が溢れてきた。
だが少尉は軽蔑するどころかより一層優しげになり、少女に近づくと絹の純白のハンカチーフを取り出し、まだ幼い彼女の涙を拭き始めた。
そんな風に優しくされるとは思っていなかったから、少女はますます涙を瞳にあふれさせる。
「すみません、陛下から下賜された大切な三八式歩兵銃『殿』を放り出してしまって」
グスン、グスンと涙ぐむ少女。
「三八式歩兵銃『殿』だって? ははん、さては君の親族の誰かは、徴兵されて内地の内務班でイビられたんだろう?」
少女はきょとんとして、
「はい、兄が応召して世田谷の連隊にいますが、どうしておわかりになったんですか?」
と答える。
「三八式歩兵銃『殿』って言わせて、内務班では古参兵がいろいろ初年兵をいびったりする道具に使うんだ。……まったく馬鹿馬鹿しい」
「……兄も連隊の面会日にこっそりと同じようなことを言っていました」
「旧式のボルトアクションライフル如きを、ありがたがって。アメリカ軍みたいな新型機構のセミオートマチックライフルをまともに開発できやしないのに、この軍隊ときたら」
少女はまず、ライフルという敵性語を少尉が平気で使うのに驚いた。
そして大日本帝國陸軍への批判。思わず目を丸くした。
まだかすかに残っている涙を、ハンカチーフで優しく拭いてやりながら、少尉は言葉を続けた。
「三八式歩兵銃殿の件なら気にしなくていいよ。気付いたかな? ライフルの本体から菊の紋章は削り取られて女学校に支給されているからね。あれはもう、陛下から下賜された銃じゃないんだよ」
「でも、まともに一発も撃つことが出来ずに……恥ずかしいです」
少女がそう言うと、少尉はハンカチーフを彼女の顔から外し、突然陰鬱な顔になってこうつぶやいた。
「女子供まで戦わせようとする国は戦争に負けるね。歴史の必定だ。この国もいずれアメリカに敗北して占領されるよ」
(日本が負ける!? 軍人さんの口からそんな言葉が出るなんて!)少女は驚愕した。
「どうして……そんなことをおっしゃるのですか。この戦争は聖戦なのだから——」
そこまで彼女が言いかけた時、少尉はその言葉をさえぎって言った。
「俺は北支やガ島、ニューギニアと転戦してそれぞれの戦地で地獄を見てきた。だから言える、この国は、この民族は、どうしようもない愚かな存在だと」
少尉の視える方の目には暗澹とした光が宿っていた。それはいままでの温和なものとは隔絶したものだった。本当の地獄を巡った者だけが宿す光だった。
二人の間に沈黙が生まれた。
保健室のカーテンの隙間から差し込む光が室内のほこりを金色に輝かせていた。
それから、少尉はニコッと普段通りの笑顔に戻り、
「いま、とあるペシミストがもらした言葉は二人だけの秘密だからね、京子ちゃん」
と、明るい口調でつぶやいた。
「——あんなにたくさん生徒がいるのに、私の下の名前をご存知だったんですか!?」
少女は驚きと歓喜を含んだ声をあげる。
「もちろん、俺の大切な生徒の一人だからね」
にこりと微笑む少尉。
少女は自分のような存在にも、配属将校たる少尉が目をかけてくれていたことに、胸を弾ませ、頬を再び紅潮させた。
「今日の軍事教練は休みなさい。ああ……それから、このハンカチーフは、京子ちゃんへのプレゼントだ、持って行ってくれ」
そうして少尉はハンカチーフを少女の両手に握らせた。
「どうして、急にいただけるんですか?」
「予備役の応召が決まったんだ。今度はフィリッピンあたりに送られるらしい。——戦場じゃあハンカチーフなんていらないだろ? だから女学校の可愛い誰か、そう、ちょうど京子ちゃんに、形見として持っていてもらいたいんだ。ただ、それだけのことさ」
——かたみだなんて、死を覚悟したようなこと言わないでください!
少女は胸が張り裂けるような想いを声にしようとしたが、それは言葉にならなかった。
配属将校の彼は、ベッドから離れ保健室の扉を開くと振り返り、微笑みながら少女に向かって素早く陸軍式の敬礼をした。
そして扉を閉めて行ってしまった……。
それが、少尉と少女の最後の別れとなった。
数日後、新たな配属将校が赴任してきた。五十代のいかめしい顔つきの人物で、何事があっても精神論を説き、日本の敗色が明らかに濃厚になってきても「神風が吹く」の一点張りだった。
制服のスカートも、もんぺ姿に変わり、軍事教練の内容も実弾射撃から竹槍突撃の訓練に変わった。あの菊の紋章を削り落とされた三八式歩兵銃も、貴重な武器として前線の部隊に送られた。
そうして少女と少尉が別れて二年後、二発の核兵器の攻撃により日本は無条件降服した。
武蔵野のベアリング工場で勤労奉仕にかりだされていた少女はアメリカ軍の戦略爆撃で何度も死線をさまよったが、そのたびに思い出したのはあの最後、敬礼して別れ戦地に向かった、少尉の事だった。
やがて終戦を迎え、少女も勤労奉仕から学校に復学し、貧しいながら平和な生活がやってきた。その日々の中、彼女が真っ先に始めた事は、あの少尉の消息を調べることだった。休みの日は武蔵野から新宿などの大きな駅まで国鉄で出て、復員兵にあたりかまわず少尉のことを知らないか聞いて回った。
そして少女は知った。偶然、本当に偶然に知り得た。帝國海軍の海防艦乗りだった水兵が、『片目に眼帯をした陸軍少尉を、護衛する輸送船に乗せる時に見た』と述べたのだ。
「ん……その少尉さんとやらかい? バシー海峡で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて船ごと爆沈しちまったよ。骨は今頃海の底だろうな」
少女はそれを聞いて愕然とし、駅の改札前にへたり込んだ。
ちょうど復員兵への炊き出しをしていた、救世軍の若い男が脚を引きずりながら少女に近づき、後ろから抱えて彼女を立たせてやった。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん?」
「……それじゃあ三八式歩兵銃は——」
「——え、なんだい?」
男が聞き返す。
「女学校から戦地に送った、菊の紋章を削り落とされた三八式歩兵銃は、どうなったんですか」
呆然とした顔で少女はつぶやく。
「三八式? ああ、俺も今は救世軍をやっているが、実はミンダナオ島からの引き揚げ組でね。三八なんて役に立たないモノ、敗走する途中で重たくなって川の中に捨てちまったよ。おそらくお嬢ちゃんの学校の三八もどっかの山か草原に転がってるだろうよ」
その言葉を聞いた彼女は男に礼を言い、よろよろと、街の人混みの中に歩みだした。
そしてスカートのポケットからあの少尉の遺品となった純白のハンカチーフを取り出した。
引揚者の喧騒であふれ、街頭のスピーカーからは大音量で流行曲の『リンゴの唄』が流れる闇市の雑踏の中なら、大声で泣いても誰も気には留めないだろう。
だから今は、一人のペシミストの少尉と、古ぼけた三八式歩兵銃の最期のために、声を張り上げていつまでもいつまでも泣き続けよう。
そう、少女は決めた。
《了》
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